イルカの主

聖人王ギルバー1世(1198-1249)

1198年孤高王ゴーシュ1世の病死に伴い、彼の長男であったギルバーがブルゴーニュ王となった。
このとき弱冠7歳。幼い王が三代に渡って出たため、民衆の間ではこの王家は呪われているのではと囁かれた。

まずギルバー1世が行ったことは、直轄領の配分である。
しかし、一族は母であるティブルゲと祖母でフィリップ一門のアンリエッタしか居なかった。
そのため、母ティブルゲに広大なブルゴーニュ公領を与え、
祖母アンリエッタにはサヴォイ公領とフィリップ一門の本拠地だったベルン、アールガウを与えた。

それでもなお、統治に困る有様であった。


1202年、ギルバー1世のもとにある青年が訪れた。
その青年は他国から亡命してきた人間であったが、その正体を知った宮廷内は大騒ぎとなった。
なんと彼は、あの反逆者であるプロヴァンス公ギョームの末子だったのだ。

その青年はハンベルトと言い、自分は父がこの国から追放された後に生まれたことと、
自分が彼の庶子であることを明かした。
父の死後、各地の国を転々としてきて、遂にここにたどり着いたのだという。
それを知ったギルバーは快く家臣として彼を加えた。
その後、彼に妻を与え一族としたのである。


即位してから8年間、ギルバー1世は自らを鍛えることに専念し立派な戦術家となった。
そして1205年、教皇からの要請でバレンシア太守と戦争をすることとなる。
その翌年の1206年には、バレンシア太守を潰すことに成功し、
バレンシア公とマリョルカ公、更にはムルシア公の地位も手にし、聖人王と呼ばれるようになった。

そしてハンベルトをマリョルカ公とし、バレンシア公とムルシア公はそれぞれ年老いた家臣に与えた。

この戦争にはブルゴーニュ公である母ティブルゲも参加し、彼女はナバラを攻略した。
しかしそのことが思いもよらぬ事態に発展する。
なんと、母ティブルゲがナバラ女王に選出されブルゴーニュ公領ごと独立したのである。

これにはギルバー1世も不満を覚えたが、自分の手元に来ることは解っていたため、何も言わなかった。


1209年、ギルバーは家臣であったアマヴィリアを妻に迎えた。
そして彼女にプロヴァンス公の地位を与え、自らの次の位においたのである。
民衆はこれで安心と胸をなでおろした。

1210年、マリョルカ公ハンベルトが病から回復することなく25歳の若さでこの世を去った。
その後継には彼の長男である幼いエルネストがマリョルカ公位についた。

1212年、ギルバー1世に待望の男子が誕生した。名前は妻の意向によりジャックとつけられた。
更に翌年には次男が誕生。この子の名前は父と同じギルバーと名付けられた。


1216年、祖母でありサヴォイ公であったアンリエッタが死去する。63歳であった。
サヴォイ公の地位はギルバー1世の手元に戻り、そのまま直轄領とした。

1218年、ギルバー1世は祖父の代からの野望である大ブルゴーニュ計画の集大成となる
シュバイツ公の地位を手に入れることとした。
そしてシュバイツ伯とロンバルディア公に宣戦布告をした。
その結果、シュバイツ伯の領主であるシュワビア公と神聖ローマ帝国との争いとなった。

最終的にはシュバイツとグリソンを手に入れシュバイツ公の地位を手に入れることに成功した。
これにより、フィリップ1世の掲げていた大ブルゴーニュ計画はなしとげられたのである。


1220年、ギルバー1世に三男が誕生した。その子はアルフォンソと名付けられた。

ギルバー1世はこの頃から、大規模な直轄領の土木工事を行うようになる。
特に全ての直轄領の教会と城を改修し、各地に大きな教会や立派な城壁が建つようになった。

1225年、エルネストに長男が生まれ、彼の父の名と同じハンベルトと名付けられた。
その翌年には次男エルドリックが生まれ、一族の人数も再び増えてきた。

一方、隣のフランスは大規模な転換が生じていた。
新しいフランス王アンリ3世の活躍でフランドル公とトゥールーズ公の領土を徐々に削っていったのである。
また、ポワティエ公もブルターニュ公とアルマニャック公の連合軍に勝利し領土を南に伸ばしていた。
これによりフランスは、領土を広げたフランス王国とポワティエ公国、
神聖ローマ帝国から自国領を守り抜いたシャンパーニュ公国の三つ巴となった


1228年、ギルバー1世は長男であるジャックにサヴォイ公の地位を与えた。
その翌年の1229年には、次男のギルバーにシュバイツ公の地位を与えた。
ギルバーは父がそれまでシュバイツ公であったことから、自らをシュバイツ公ギルバー2世と名乗った。

1231年にはジャックに長男が誕生する。この子の名は父の反対を押し切り、ギョームと名付けられた。
その翌年にはギルバー2世の長男アレンが誕生、さらにその翌年には次男ギュエリが生まれた。
ギルバーはこれらのことを喜んだ。しかし、1234年東の彼方に騎馬民族が現れたという情報を得た。

ギルバー1世は歴史に詳しかったため、フン族のことを思い出した。
彼らがやってきたのだと思ったギルバー1世は直ちに討伐隊を編成し、東の彼方へと向かった。
その騎馬民族は自らのことをキプチャクと名乗った、意味は金色の幌。
その意味から、周辺諸国からはゴールデンオルドといわれるようになる。

ギルバー1世は偶然にも彼らが留守の状態で敵の本拠地に乗り込み、敵の城を陥落させた。
これによりゴールデンオルドは滅亡したのである。
ギルバー1世は彼らがフン族でなかったことを判ったため、さっさと帰国の途についた。


1236年、三男アルフォンソをラングドック公の地位につける。
これにより、王の直轄地はドルフィン公領のみとなる。
更に同じ頃、ギルバー2世に三男モーリスが誕生した。

そしてその数ヵ月後、ギルバー1世に訃報が届く。
実母でありナバラ女王であったティブルゲが他界したのだ。
これに伴い、ギルバー1世はナバラ王とナバラ公の地位を得て、ブルゴーニュ公の地位を取り戻した。

その後、ギルバー1世はナバラ王国領土を家臣たちに分配し、自分はブルゴーニュ王に専念すると宣言した。
とはいえ、ナバラ王の地位は依然としてギルバー1世自身の手元に在る事となった。


1238年、再びゴールデンオルドが東の地に現れたという情報がギルバー1世の元に来た。
ギルバー1世は再び彼らを返り討ちにする準備をしていたが、あることがきっかけで中止をすることとなった。
その理由は、ゴールデンオルドが中東の最大勢力となっていたビサンツ帝国に宣戦布告をしたためである。
つまり、自らの手を汚す必要が無いと判断したのである。

案の定、ビサンツ帝国にどんどん追い詰められていき、彼らはロシアの北の端に閉じ込められた。


1242年、アルフォンソに長男シモンが生まれる。
ギルバー1世はこの名前にもクレームをつけようとしたが、結局そのままとなった。

その4年後の1246年、ギルバー1世はシャンパーニュ公国の救援要請に応え、
下ロレーヌ公と上ロレーヌ公に宣戦布告をした。
この結果、クレームのついていたロレーヌがブルゴーニュ王国領となる。

ギルバー1世はこのロレーヌの地を手に入れたとき、ロートリンゲンをわが国の物とし、
中フランク王国の再現を夢見た。こうして、ロートリンゲン征服計画を起すこととなる。

ロートリンゲンは7つの公爵領から成立していて、ライン川沿いの細長い土地である。
比較的豊かな土地も多い事から、長い間フランスと神聖ローマ帝国の係争地となっていた。
しかしフランス王国は弱体化し、神聖ローマ帝国がほとんどの土地を占めていたため、
ギルバー1世は新たに、この地に参入しようとしていたのである。


ロートリンゲン.GIF

しかし1248年、ギルバー1世の体に異変が生じた。
医師の診断の結果は病によるものと判明するも、すでに遅かった。

その翌年1249年、ギルバー1世はこの世を去り、彼の50年近いブルゴーニュ統治に幕を下ろした。
彼は、民衆から教会復興と十字軍の活躍から聖人王と呼ばれた。

そして、彼の後継は90年ぶりに行われた家臣団の選挙によって、彼の次男である
シュバイツ公ギルバー2世がブルゴーニュ王に即位することとなった。


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