私はルクセンブルク家二代目当主フリードリヒ・フォン・ルクセンブルクだ
どうでもいいが、リュクセンブルクという表記は好みでないから今後はルクセンブルクで統一するぞ
さて、私は父上から
ルクセンブルク公爵、ヴェネッツィア公爵、ルクセンブルク泊、ヴェネッツィア伯、トレヴィーゾ伯
を受け継いだ
ヴェネッツィアの豊かな資金のおかげで国庫は豊か・・・かと思いきや
家令(嫁が就任してました)が序盤から使い込みイベント連発して赤字に悩んでるな・・・
その後、妻がストレスをわずらったのを口実にして新しい家令を任命したがね!
そのあと何年かたち、祖父が死んだために
これで一躍欧州随一の金持ちになったわけだな
建国王として知られるルクセンブルク家二代目当主、フリードリヒ・フォン・ルクセンブルクは父親からヴェネッツィア、母方の祖父からフランダースの地を相続により受け継いだために豊かではあるものの低地と北イタリアとそれぞれ離れた領土を持つことになった。
また、この頃フランス王国内は内乱の嵐に巻き込まれ、フランス王からの度重なる出兵要請、軍事費の徴収が利己的なフリードリヒをたびたび悩ませたことは想像するに難くない。
1105年、フランス王国を揺るがせる事件が起こる。フランス王国最大の諸侯、アキテーヌ侯爵の反乱である。実にフランス王国の1/4を支配する大侯爵の反乱に対して、速やかに討伐の軍を起こしたフランス王国だったが、大陸への影響力拡大を狙ったイングランド王国がフランス王国に宣戦、イル・ド・フランス周辺を瞬く間に席巻するが双方攻めきることができずに戦争は泥沼になってしまう。
フランス王からの執拗な出兵要請に辟易したフリードリヒはついに反旗を翻した。
すなわち動員した兵を船に乗せるとドーバーを南下。アキテーヌ候を討つそぶりを見せつつイベリア半島に上陸すると破門されていたレオン王に禅譲を迫りこれを受け入れさせた。
後の世で言うルクセンブルク朝レオン王国の始まりである。
無事に王に即位できた用で何よりだな
ああ、これでいいように使われることもなくなる
王の道は修羅の道だぞ(反乱鎮圧的な意味で
言われるまでもない
覚悟はできているさ
そうか、で今後はどうするんだ?
うむ
現在我がレオン王国は低地、北イタリア、イベリア北部に領土がある
当面はこのうち本拠地のある低地と北イタリアを接続すること目指したい
となるとドイツ進出か
そうなるな
で、神聖ローマ王国は今どうなってるんだ?
こんな感じ
緑のところが神聖ローマ領、薄緑がその臣下、赤いところは敵対諸侯だ
切り取り放題!
フランス、ボヘミア、ポーランド、スウェーデン、ハンガリーが介入して虫食い状態になっているから一筋縄ではいかないと思うぞ
そんなわけでクレーム持っていた上ロレーヌ候(正確にはその臣下)に宣戦布告してドイツ刈り取りモード突入!Let's宣戦!
人の話聞けよ・・・
ちょっ・・・おまっ・・・800年早いだろこれ
うーん、上ロレーヌ候は降したけれど、これはどうしたもんかね?
とりあえずドイツ共和国の主席執政官が破門されているからクレームとろうかと考えたんだが
デンマーク王のクレームとったばかりで威信がないんだよな
しかもその後あっさりドイツ主席執政官が世代交代して破門無くなってる
作戦変更して今度はドイツ王位を簒奪するためにドイツ諸侯を切り取るかね
大丈夫か? ドイツは広いんだぞ?
っと戦争に明け暮れるうちになんと妻が死んでしまった
かまってあげなかったからさびしかったんだろう
ここで私に天恵が振ってきた
うむ?
死んだ妻との間には二人の娘しかいなかった
それで?
再婚して男の子が生まれればドイツ共和国乗っ取れるじゃないか!
・・・
私が某AARの天使だったら地獄に落としそうな発想だな
血を流さずに領土が取れるならそれにこしたことはないだろ?
その後、フリードリヒは後妻との間に4男4女を授かることとなる。彼の息子たちはいずれもドイツ共和国へと留学していた。やがて頭角を現した次男アドルフ(後の征服帝)がドイツ共和国主席執政官となる。一方ドイツ方面への進出を停滞させたフリードリヒ王の目はもう一つの根拠地であるイベリアの安定を図るべく兵を上げた。イベリア開放戦争の始まりである。
(開戦前のイベリアの図)
当時イベリア半島にはレオン・カスティーリャ・フランス・セルジュークトルコ等が割拠していた。仲でも強大なのはイスラム国家の雄・セルジュークトルコである。
興味深いのはレオン王国のイベリア侵攻に対して、同じキリスト教国家であるカスティーリャ、フランス王の間でやり取りされた手紙から「この戦争をフリードリヒの領土欲の発現である」とし警戒している内容が読み取れることである。
もっとも彼らにしたところでそれを公に訴えることはできなかったであろう。おりしも当時はセルジュークトルコからのエルサレム奪回を目指す十字軍が発動されており、イベリアのセルジュークトルコに臣従する首長たちに対する侵攻は神の御心に沿うものとして教皇聖下はフリードリヒ王の行動を激賞されていたのだから。
当時の資料によるとレオン王国とセルジュークトルコでは三倍近い国力の差があったようである。しかしながらセルジュークトルコはほぼ全てのキリスト教系国家と戦争中であり、またセルジュークトルコのスルタンはアラーの教えを信ずる各地の王たちへと聖戦を呼びかけたけれども、聖戦を行う諸侯はおらずイベリア半島はレオン王国の領土と化していった。
開戦前のセルジュークトルコは現代のペルシャ、トルコ、イベリア半島、それにバルカン半島の一部とシリアの一部を版図に納め、イスラム勢力最大の雄であった。キリスト教系各王国が遠路遠征してきてもそれを跳ね飛ばせるだけの国力があったが、なにぶんイベリアは遠く、キリスト教系各国家との戦争に足を引っ張られたこともあり速やかに援軍を送ることができなかった。キリスト諸王との戦いに疲弊していたセルジュークトルコはイベリアを版図に納め、勢力を拡大したレオン王国とまともに戦う力は残っておらず、イベリア諸侯のレオン王国への臣従の承認及びイベリア半島の放棄、バルカン半島の放棄及びレオン王国へのイスタンブール割譲を条件に和睦することとなった。
その後にイベリアのイスラム勢力の復権をかけてムラービト朝が宣戦してきた。
ムラービト朝はシチリアからモロッコ・アラビアにかけて広い領土を持っていたが開戦劈頭のジェノバ執政官率いるレオン王国軍によるシチリア本土強襲を受け、主力が壊滅してしまう。以後反撃の統制が取れないままにただひたすらに受身に回るのみとなったムラービト朝は各地の諸侯が勇戦したけれどもレオン王国の兵力の集中投入の前には抗う術はなく。半年の交戦を経て、モロッコの放棄、アフリカ諸侯のレオン王国への臣従の承認、アラビアのムラービト朝諸侯の安堵を条件に和平を結んだ。
これによりフリードリヒはエジプト王位を宣言し、栄光に包まれつつ天に召されたのだった。
建国王フリードリヒ、享年54歳であった。
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