1145年、司令官ゴーシュはドルフィン公となった。このとき彼は39歳だった。
彼が公位を継いだ理由は、彼の父シャルルが先代ルイの長男であったためである。
しかし、叔父であるアンドレの協力なしでは公位につけなかった可能性すらあったため、
彼は自分より年下ではあったが目の上のたんこぶのような存在であった。
後任の司令官には長男のレンドルを任命した。彼は先代公ルイの再来と呼ばれるほどの軍才を持っていた。
その翌年、彼に次女ブロンデが生まれる。このことに人々は戦争があるのではないかと思わせた。
なぜならば彼の長女エリーズが生まれた時彼はオラニア伯の地位にあり、
その年に周辺のムスリムに戦争を仕掛けたことがあった。このときは負け戦となりオラニアを失ったことのである。
人々の予感は的中する。ゴーシュは同盟の切れたジェノヴァ共和国に宣戦布告をする。
本来プロヴァンス公領であるニースを獲得するためであった。
人々は負けるのではと悪い予感に変っていったが、オラニア伯時代とは兵の量も質も家臣も異なっていた。
その為か3ヶ月で勝負がつき、ニースと多額の賠償金を手に入れた。
この戦いの最中、次男のマウグスに息子が生まれた。名前はオリヴァーと名付けられた。
このジェノバへの勝利の翌年、ゴーシュはヴィヴィエル伯のアンドレに
プロヴァンス伯とフォルカルフィエ伯の2つを与える。
その代わり、彼からヴィヴィエル伯の位を剥奪した。アンドレは素直に応じ、プロヴァンスへ移った。
これは、ゴーシュが即位の際にアンドレから交わされた約束を守るためであり、
後のプロヴァンス公にヴィヴィエル伯の地位を持たせないための手段でもあった。
そしてヴィヴィエル伯の地位には叔母であり、子供のいないマティルダを置いた。
アンドレがプロヴァンス移転した際の翌年、彼に初孫が生まれる。
その子は男子で、長男ギュンメントの子として生まれ、ピピンと名付けられた。
このとき、ゴーシュが最も心配していたのはベルン伯フィリップ2世である。
彼はあの重鎮フィリップの孫であるが、弱冠7歳にしてベルン伯の地位となり、
追放されたジーンを除いてはフィリップ一門で唯一の男子であった。
つまり、彼が後継者のいない状況で死ぬと他家にベルン伯の地位を奪われる結果となる。
ゴーシュはそのことを心配していたが、杞憂に終わった。フィリップ2世に男子が生まれたのである。
その子はラウルと名付けられ、更に翌年には次男エミールが生まれた。
これで当分は安泰だとゴーシュは胸をなでおろした
1151年、ゴーシュはいまだ達成していないドルフィン公領の全域支配へと乗り出すため、リヨン伯に戦争を仕掛ける。
このとき、神聖ローマ帝国とベサンコン伯もドルフィン公に戦争を仕掛けてきた。
ゴーシュはレンドルにドルフィン兵を与え、リヨンへと進軍させた。
リヨン伯の兵は脆く、その城も砦であったため一ヶ月もせずにリヨンを併合することに成功した。
そのとき、神聖ローマ帝国軍がサルレスへと侵入するも、
プロヴァンス伯のアンドレの協力により打ち負かすことに成功する。
レンドルの軍はそのままベナイシンへと侵攻。
ベナイシンはブルゴーニュ王領の一部だったため、ゴーシュはそのまま併合することにした。
また、レンドルも期待を裏切らずベナイシン伯を併合することに成功する。
この段階で、皇帝領であったナッサウをベルン伯のフィリップ2世が占領に成功。
これによって神聖ローマ帝国は、ドルフィン公国領の全領土に対してのクレームを消すことで和解をした。
このことは神聖ローマ帝国がドルフィン公国の独立を正式に認めたものとなった。
この年、ヴィヴィエル伯となっていたマティルダが死去する。この後継はおらず、ゴーシュの手元に戻ってきた。
ゴーシュはこの際に手に余るほど大きくなった直轄領の再編を行った。
まず、手に入れたが、飛び地をなっていたベナイシン伯は先の戦いで最も功績をあげた長男レンドリに、
そして、手元に戻ってきたヴィヴィエル伯には次男マウグスを置いた。
これに呼応してプロヴァンス伯アンドレも、彼の持つフォルカルフィエ伯を長男ギュンメントに与えた。
無論、ゴーシュはこれに賛同した。
その後悲しい出来事がおきた。ゴーシュの妻イドニアがこの世を去ったのである。
しかしゴーシュはその後、新しい妻を迎えた。叔父アンドレの次女アリシアを迎えたのである。
だが、叔父のアンドレはこの結婚には複雑な心境であったが、認めることとした。