ナコニド家(リューベック)/1291。王ロベールは軍勢を率いてシリア地方へ進撃した

王冠を我が手に

主の1321年。空に大いなる凶兆が現れた。
火と硫黄の雨が全天を覆いつくし、恐ろしい叫び声が国中に響きわたった。
(『ナコニド家年代記』)

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愚王ハインリヒ・クヌートリング
エンゲルブレヒトの息子

話は1294年のノルドに立ち戻ります。
その愚行の数々をいさめた忠臣レオフリクソンに対し、
ノルウェー=デンマーク王ハインリヒは激怒いたしました。

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カンバーランド公レオフリクソン
ノルウェー・デンマーク王国の歴史とともに歩んできたサクソンの名家

そうしてハインリヒはレオフリクソン家からカンバーランド公位を剥奪、
北イングランドのめぼしい領地を召し上げるという暴挙に出たのでござります。

これが発端となってノルウェー海外領各地で叛乱、独立が頻発いたします。
愚王ハインリヒはイスパニアやドイツの領地を失ったばかりか、
ノルド本土の大公たちの叛乱にすらおびえねばなりませなんだ。

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1301年、ガッレの乱 赤枠はガッレ家に同調して叛逆した諸候の領地
一足先に自立したクールラント・ナコニド家は1307年チュートン騎士団に臣従した
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北イングランド情勢
1293年:スコットランド軍の南下
1296年:レオフリクソン家の粛正、ノルウェー領イングランド大混乱におちいる
1301年:ハインリヒ王の親征 タイン河決戦でスコットランド大敗
グレゴリー公は混乱をついて弱小国を攻め、北イングランドで新たに3州を得た

グレゴリー公は北イングランドの情勢を注視しておられました。

ダービー及びノーザンプトンの司教ガレオット、
それにダラムのレオフリクソン分家がハインリヒに宣戦を布告したのを知ると
時をおかず軍勢を率いてこれを攻め滅ぼされました。
こうしてついに、北国にノーフォークの黒金旗が打ち立てられたのでござります。

されど叛乱は野火のごとく、みさかいなく拡がり燃えるもの。
あれよあれよというまに火の手はノーフォーク公国にも及び、
コーンウォール2領とサセックスのシャルル・ナコニドが
グレゴリー公に叛旗を翻しました。

「叛逆結構! まったく好都合なことだ。
王権を打ち立てるにあたって叛臣など早めに掃除しておくに限るからな」

王権ですと?
さよう、グレゴリー公はこれまで胸中に隠し通してきた
イングランド王即位の意志を明らかにしたのでござりました。

諸候らはこの事実を知って大いに驚き騒ぎます。
なにしろイングランドが王を持たぬという事実は
諸候らの代行支配を正当づけるものであり、その力や権威の源泉であり、
場合によっては誇りでさえござりましたから……。

「グレゴリーはやりすぎた」
「ノルマン貴族の特権を護れ!」
「イングランドに王はいらぬぞ!」

諸候は一斉に反発いたします。
こうして1301年から05年にかけて、ノルウェー領とノーフォーク領を合わせた
イングランドのほぼ全土が修羅のちまたと化したのでござります。

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1305年、イングランド大乱の渦中にあるノーフォーク公国
交差した剣は1296-1306年に叛逆または独立した諸候を示す
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オレンジ枠はレスター伯エルフリダ、サセックス伯シャルルの領地
彼らの叛逆によりギヨーム系のナコニドは断絶してしまった
青枠はエイマール系ナコニド、忠実なるケント伯ルイの領地

あまりに不穏な情勢のために、征服した叛乱臣領の取り潰しすらかないませぬ。
仕方なしにこれらの領地は兵の略奪するがまま放置されました。

しかし1305年10月、ついにお膝元のノリッジ司教が

「公国は内乱の危機にある。断固たる処置を」

との声明を発するに至ります。
グレゴリー公は吹っ切れなさったように
叛逆封臣どもの取り潰しをお命じになりました。

人々はうわさいたします。

「内乱の危機が恐ろしいのは封じた家来が叛逆するからだ。
もしかするとグレゴリー公は祖父の破門公シャルルのように
封臣を一人残らず討ってしまうおつもりでは?」

そのまま続けばかくあいなったことでござりましょうが、
なにぶんグレゴリー公は大層なお年でいらっしゃいました。
その年の暮れ、急の病に倒れられたのでござります。

内乱鎮まる

急遽、デヴォンにおる第一継承者アダムがノリッジ宮廷に呼び出されました。
グレゴリー公は激痛に顔をしかめながら
宮廷に出頭したおのが長男を罵りなさったという事でござります。

「放蕩息子の御帰還というわけだ。
くれてやる……貴様に公位をくれてやると言っている!

ただしこれだけは忘れるな。
イングランドを統一せよ。王となれ。世間の奴らに目にもの見せてやれ!
俺には無理だった。あと少しのところまでこぎつけたのに!
悔しい、悔しい、悔しい……」

こうして1305年の暮れ、
グレゴリー・ナコニドは憂きこの世を去ったのでござりました。

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出戻りアダム グレゴリー長男
紆余曲折の末、第五代ノーフォーク公としてノリッジへ帰還した

あちこち放浪して世の中をご覧になったアダム公でござります。
父君のような無茶は結局は通らぬことを重々承知しておられました。

アダム公はさっそく諸候会議を開催し、
伯や司教たちとよく合議して公国の安定を計ろうとなさったのでござります。

「父上はああ言ったが、卿らなくしてイングランドは成り立たぬ。
王国創建のため、このアダム・ナコニドひれ伏して卿らの合力を願う!」

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1305年:グレゴリー死亡時の公国直轄領
1306年:アダム公の直轄領および司教リチャードの所領

また、その長男リチャードにレスター、ノーザンプトン、リンカーンを分け与え、
各地の司教に選任いたしましたのはアダム公の英断と申せましょう。

これによってアダム公は教会の支持をとりつけ、
諸候の反発心はいささかなりともやわらぎました。
こうしてイングランドの大内乱はしだいに鎮まっていったのでござります。

アダム公は1309年までにドーセット州、サリー州を回収すると病いに倒れ、
しばらくしてのち亡くなられました。
出奔生活が長く、もうそれなりのお年でいらっしゃったためでござります。

「イングランド30州のうち、ナコニド家は18州を保持している。
あと2州取ればイングランド王位に手が届く計算だ。
リチャード、諸候に気をつけろ。
イングランドを動かしているのは彼らだ」

アダム公は我が子リチャードにそう言い残されたそうでござります。

凶兆

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リチャード・ナコニド 第六代ノーフォーク公
エイマール、グレゴリー、ギヨーム三兄弟のうちグレゴリー分家が公位を独占した
リチャードの兄たちはデヴォン伯領に残ってド=コントヴィル家に仕え続けている

リチャード公が最初に手がけられたのは年代記の編纂でござりました。

「王を号しようという家に伝記がないというのでは格好がつかぬ」

意外に思われる向きもござりましょうが、
これまでナコニド家の年代記というものが書かれたことはござりませなんだ。
宮廷の移動が激しく、まとまった記録が残らなんだためでもござりましょう。

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幾人もの書記がデンマークやドイツ、エストニアの旧家に派遣され、
埃にまみれながら羊皮紙の束をひっくり返し続けたとのことでござります。

主の1316年、リチャード公は母親の実家であるシュターデン家から
17歳のエウフェミアを嫁に迎えました。
まさに才媛というにふさわしい賢い嫁御でござりましたそうな。

10月にはドイツ共和国に叛旗を翻したサフォークのビルング家領をも領土に加え、
リチャード公は王位獲得に向けて順風満帆の御様子でござりました。

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ノーフォーク公国、1317年
オレンジ枠はイングランド30州の範囲
1316年サフォーク州を回収し、イングランド30州中19州を保有するに至る

一方で、レオフリクソン家の遺領たるウェストモーランドは
なかなか臣従の誘いに乗りませぬ。

威信が上がるのを待ってウェストモーランド独立伯を潰すか、
またはウォリック公国を削るか?
いずれにせよあと1州でイングランド王位宣言の運びでござります。

ああしかし、世の中とはまことにままならぬもの。
実に突然の悲しむべき知らせでござりました。

「ノーフォーク公リチャード、急死す!」

元々あまり御丈夫ではござりませなんだリチャード公。
即位以来の日夜の激務がお体に障ったのでござりましょうか……。

主の1318年2月、妃エウフェミアと齢一歳の幼な子ヘンリーを残し
32の御年であっけなく亡くなってしまわれましたのでござります。

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真面目なエウフェミア ノーフォーク公国摂政
シュターデン家に嫁いだエリカ・ナコニドの曾孫
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ピロシュカ・ボルカラーンから五代を経て、異国の地において
ハンガリー文化が継承され続けていることに驚きを禁じ得ない

「わたしがヘンリーに代わって政務を執ります。
この子は堅信礼までにイングランドの王となるでしょう」

しかし貴族たちはこのフランクの言葉もよう話せませぬお妃を
軽んじておったようでござります。

強権をふるったグレゴリー公亡きあと、
アダム公、リチャード公とめまぐるしく君主が交代した事も
彼らをつけあがらせたのでござりましょう。

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ダラム伯および教皇後見人ガクトゥ・レオフリクソン
愚王ハインリヒによる公位剥奪後レオフリクソン家は離散していたが、
ノーフォーク公国で将軍職を務めていたガクトゥはその軍功により
一族の旧領地ダラムを任された

「なんだ、あのドイツ女。
いきなりよそからやってきて王母を気取るなどおこがましい!」

主の1320年、ダラムのレオフリクソンが叛乱。
翌21年にはまたもノリッジ司教により『内乱の危機』が宣告されました。

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1321年9月、イングランド南東部で複数の巨大な彗星が観測された
火の雨が降った、荒ぶる軍勢が中天を駆けたなど
その時の様子はさまざまに伝えられている

そうして9月、空によからぬ徴が現れました。
民は驚き騒ぎ、教会は神の赦しを求める老若男女であふれたのでござります。

「おそろしや、おそろしや」
「この国はどうなってしまうんじゃろう」
「主よ、主よ! 我らが人を赦すごとく、我らの罪を赦したまえ……」

崩れゆく覇権

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ヘンリー・ナコニド 第七代ノーフォーク公

主の1321年暮れ、
咳き込んでおられたヘンリー公が突然血をお吐きになりました。
驚いて抱き上げる母エウフェミアの胸元はみるみる真っ赤に染まってゆきます。

肺の病いでござりました。父君リチャードのご病弱は
ヘンリー公にも受け継がれておったのでござります。

「御継承はどうするのか?」
「諸候会議を開くべきではないか?」

諸候はここぞとばかりにつけこんでまいります。
主君の苦しみをよそに、なんたる不忠者ぞろいでござりましょうか!

されど情勢があまりにも悪うござります。
先の継承法変更から年数が経っておらぬこともあり、
サリカ法による同族継承を持ち出すことなど
まるで出来ぬ相談でござりました。

「聖俗諸候は降誕節までにノリッジへ集合するように」

エウフェミアは歯噛みしながらも、
諸候会議の開催を命じるしかござりませんでした。
義弟アーサーが意中の候補者であったと伝えられてござります。

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ケント伯ヘンリー・ナコニド
福者ルイ長子 エイマール系ナコニドの指導者

「なんという弱腰! あんな連中にナコニド本家を名乗らせるな!」

当然、ナコニド一族からはエウフェミアの動きに逆らう者が出てきます。
なかでもケントのヘンリーは強硬におのが権利を主張いたしました。

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ナコニド家が出した最初の福者ルイ 
前ケント伯 エイマール次男

「公正の人エイマール、福者ルイとつらなる我が家系こそ、
正当なるノーフォーク公位の継承者であるべきだ!」

そうしてエウフェミアがノリッジに諸候を呼び集めるのと時を同じうして、
ケント伯ヘンリーはその領地において挙兵したのでござります。

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1321年、ケントのヘンリー叛逆

エウフェミアは将軍バークレーにケント鎮圧を命じます。
エセックスの直参1700とオック傭兵2800。
内乱の危機の中、これは今彼女が動かせる最大限の兵力でござりました。

いまや宮廷の護衛はきわめて手薄。
一方で諸候らが手勢を率いてノリッジへ上ってまいります。
エウフェミアは言い知れぬ不安にかられました。

「この会議、何事もなく終ればよいが……」

エドゥアール・ド=モンフォール議会

そうして運命の日、主の1322年4月1日がやってまいったのでござります。

陰鬱な朝でござりました。
前日の嵐がまだ去り切っておらず、
木々の梢はゲール人の恐れる『泣き女』のごとき悲鳴を挙げ続けておりました。

寝床のなかの幼公ヘンリーはことにお咳がひどく、
エウフェミアはじっと我が子の手を握って座っておりました。
近在の農村から呼び集められた薬草婆どもが
薬湯をとろとろ煮ておるひどい臭いが寝室まで立ちのぼってまいります。

階下で争う音がして、扉が乱暴に開け放たれます。
とっさにエウフェミアは短刀を握って侵入者に詰めよりました。
突き飛ばされ、石壁に頭をうちつけたエウフェミアの目に
寝床の我が子ににじりよる雑兵どもの徽章がはっきりと映ります。
それは白地に黒貂柄の、あのブルターニュのド=モンフォールが徽章でござりました。

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エウフェミアは馬車の中で目覚めます。

窓に板を打ち付けた馬車はごろごろと荒れ道を進んでまいります。
かたわらに家令のイヴ・ナコニドや侍女らがおるのに気づきましたのは、
イヴの腕の中に我が子ヘンリーが
苦しそうな息をして抱かれておったからでござりました。

「ヘンリーを! ヘンリーを返して!」

ああ、主の恩寵はあまねくこの世を照らします、
されど今日この日においてエウフェミアは
はっきりと神の不在を確信するに至ったのでござりました。

狂わんばかりのエウフェミアの腕の中で幼な子の息はしだいしだいに荒くなり、
そうしてついに、母親の胸にぱっと血を吐いてこと切れてしまわれたのでござります。


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同じ頃、ノリッジ城ではエドゥアール・ド=モンフォールが
ノーフォーク公国12諸候による臣従礼を受けておりました。

「先のノーフォーク公ヘンリーの死により、
また聖俗諸候の推戴により、
我エドゥアール、ノーフォーク公に即位す!

イングランドに王は要らぬ。
これからは聖俗諸候によって構成される議会でまつりごとを行おうではないか」

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1322年4月、ペンティエーヴル伯エドゥアール・ド=モンフォールは
ヘンリー・ナコニドの死にともないノーフォーク公に推戴された
白枠はエドゥアール公の直轄地

「ド=モンフォール万歳! 議会万歳!」

諸候は歓声を挙げ、賛意のしるしに円卓の端を叩き鳴らしました。
以来今に至るまで、この会議は『エドゥアール・ド=モンフォール議会』として
貴族が王権にもの申すときの典拠となっておるのでござります。

ナコニド家、雌伏す

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板を打ちつけた馬車でエウフェミアらが送られたのは
海峡に面する町、サセックスのペヴェンシーでござりました。

かつてノルマンディーのウィリアムがイングランドへと上陸を果たした記念すべき地
ヘイスティングスのほど近くでござります。

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サセックス伯アーノルド・ナコニド エイマール曾孫
ヘンリー・ナコニドの死によってグレゴリー分家は断絶または追放、
ノーフォーク公国にはエイマール系のアーノルド伯だけが残った

サセックス伯アーノルドは先の議会でド=モンフォール家を支持いたしました。
内乱の危機を収拾できる貴族がほかにおらなんだからでござります。
なによりそもそもノーフォーク公位は
ド・モンフォール家がものでござりましたことを忘れてはなりませぬ。

しかしアーノルドは前公妃エウフェミアに対する敬意を忘れることはござりませなんだ。
ナコニド本家の廷臣らを軟禁するよう命じられておったのを、

「主を失った廷臣たちにすぎぬではないか。
なにを怖れることがあろう」

と言って命令をないがしろにいたしました。
そうしてアーノルド伯は彼らをペヴェンシーで重んじられたばかりか、
エウフェミアを御世継たちの家庭教師として用いなさったのでござりました。

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ペヴェンシー・ナコニド家の息子たち
トルキテル、ファルク、サイモン
サイモンはエウフェミアとアーノルドの子ではないかと噂されている

「おまえたちはナコニド家の男子。
知恵を身につけ、力を蓄え、兄弟支えあって、
必ずノーフォーク公位を奪還するのです」

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伯領の尚書長は暇な仕事である
エウフェミアは余った時間でアーノルドの子供たちに教育を施した

気丈にふるまうエウフェミアでござりましたが、
夕暮れ時などにペヴェンシーの海岸砂丘を散策する者は
嗚咽に体を震わせる貴婦人の姿を一再ならず目にしたとのことでござります。

灯し火も暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。



主の1351年。

ナコニド家(リューベック)


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