ナコニド家(リューベック)/主の1228年。この年、王ベルトルドはスケグネスの浜辺で大敗を喫した

第二帝国の崩壊

主の1249年。この年、王エンゲルブレヒトの妃ウテが死んだ。
王は悲しみ嘆き、ウテのためにアルプスの北で最も大きな教会堂を建立した。
(『デーン年代記』)

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1243年のことでござります。
ドイツ王ヘルマンの治世、大陸は麻のごとくに乱れておりました。

シャルルマーニュの再来と謳われた兄王ルドルフはすでになく、
大西洋からハンガリー平原に至る版図を誇った大ドイツは
弟ヘルマンの失政により四分五裂してしもうたのでござります。

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最後のドイツ王、ヘルマン・ビルング
その傲慢が国を滅ぼした

同年7月、ジェノアのブルボン家がドイツ共和国の成立を宣言し、
旧帝国の残滓であるビルング朝ブルグンド王国と激烈な内戦を展開するに至ります。

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ドイツ共和国初代執政、ペリクル・ド=ブルボン

なべて無常がこの世のならいでござります。
されどこのあまりにあっけない帝国の崩壊に
どこか隠謀の臭いをかぎつけた人々もござりましたそうな……。

公正の人エイマール

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錯綜した血縁関係
ヤーク家とナコニド家はほぼひとつの家といってもよかった

話変わって、エイマール公の父君アンリさまはまこと徳の人でござりました。
幼い頃よりナコニドの苦難を身をもって体験なさったアンリさまは
ゴトランド大司教兼ノーフォーク公として教会との和解をなしとげられました。

そうして聖庁の求めに応じて公教会を至上とする法を発布し、
その息子エイマール、グレゴリー、ギヨームの三人を
教皇領ソールズベリの学院へお預けになったのでござります。

長じてエイマール公は信心の深さはもちろんのこと、
世の公正とはなにか、民の幸福とはなにかを真剣に考える若者にお育ちなさいました。

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エイマール・ナコニド
第三代ノーフォーク公 ブディヴォイ伯から数えて12代目

「『いまぞ好機。荒れる大陸に攻め入って、
リューベックやエストニア公位をビルング家から奪還すべし』
という声があることは承知している。

だが私は、まっとうに、地道に、ノルウェー領イングランドの一諸候として
暮らしを立てることこそが民のためになると信ずる」

そんなノーフォークの善政を慕ってか、
幾人もの領主たちがエイマール公に忠誠を誓いました。
1238年、ペンティエーヴル伯の臣従が皮切りとなります。

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武人ブシャール・ド=モンフォール

「エイマール公はド=モンフォールの血を引かれた御方。
古い盟約に従い、われらド=モンフォールはイードの恨みを捨てて、
ノーフォークの旗のもとに集おう!」

ペンティエーヴルの領主ブシャール・ド=モンフォールは
臣従に際してそう言ったと伝えられてござります。

そうして1242年までに、

といった旧ドイツ王臣がエイマール公に臣従を果たします。
かくてナコニド家は英仏海峡をまたぐ大領の主として復活を遂げたのでござりました。

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ノーフォーク公領、1242年
ナコニド家の復活にはド=モンフォール一族が中心的な役割を果たした

汚れていた手

「ラタヴリ叔母さま、これはどういうことですか」

エイマール公の怒気をはらんだ声が宮廷に響きます。

公領の財政再建に取り組んでおられたエイマール公は、
使途の明らかでない多額の金子がナコニドの家産から
支出されておることに気づかれたのでござります。

叔母のラタヴリ・ヤークがそれに関わっておることがわかると、
エイマール公は彼女を呼び出しました。
事と次第によっては追放さえ辞さぬつもりで……。

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ラタヴリ・ヤーク
エイマールの母ソフィア・ヤークの妹にして、ヤーク家家臣団の長

「手だれの刺客を飼うにもそれなりの出費があります。
ご安心を。結果はきちんと出ておりますから」

「……刺客?」

ラタヴリは静かに話しはじめました。
1240年から42年までのあいだに
ドイツ王ヘルマンの王太子を含む廷臣7人の殺害を試みたこと、
3回の失敗を経ながら、42年11月までに全目標の排除を達成したことを
エイマール公に淡々と報告したのでござります。

「あなたは血まみれの復讐者だ!
わたしが公領を回って民の声を聞き、よいまつりごとを行おうとしていた一方で、
あなたはビルング家に対する復讐を求めてやまなかったというのか!」

ラタヴリの顔が険しくなりました。

「口を慎みなさい、エイマール。
ぬくぬく育ってきたおまえに何が解るというの。

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無能×無能無能×無能×無能××

排除目標とされたのは外交向きの人材ばかり。
彼らを失ったヘルマンは自分と同じ程度の無能を帝国大法官につけるほかなかった。
エイマール、まさかおまえが自分の人徳だけで
あれだけの旧ドイツ王臣をものにできたと思っているの?」

たしかに大ドイツの分裂は避けられぬものでござりました。

されどそれを長引かせ、致命的なものとしたのはラタヴリの放った刺客たち。
イングランドや北仏の領主たちをして王に叛旗をひるがえさせ、
エイマール公が取り込むことができたのは彼らの働きあってこそ。

公正の人エイマールの輝かしい治世は、はなから血で汚れておったのでござりました。

この土に生きる

なお悪い事に、そういった事どもが世間の耳目を集め始めました。
エイマール公は悪評を削ぐため、領地を臣下に分け与えざるを得ませんでした。

ノルド最古の名家ユングリング家をオックスフォード公として独立させ、
またイェンスの血筋を受け継ぐロストクの小イェトヴァルド・ナコニドに
ゴトランド公位を与え独立させたのでござります。

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ノルウェー=デンマーク王国の諸候、1244年
(イベリアとロマニアの飛び地を除く)
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クールラント・ナコニド家とメクレンブルク・ナコニド家は
王の方針に反発して独立してしまっている

こうしてエイマール公は、かつて数多の市が立ち、ナコニド家に多くの財をもたらした
ゴトランド、オーゼル、シェランのバルト三島すべてを
分家筋に譲っておしまいになったのでござりました。

「もうバルト海には帰らんということかのう……」

ナコニドの昔を知る古老たちは深くため息をついたということでござります。

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エイマール公は封臣たちを大切に扱いました。
領地を召し上げることなく、むしろさかんに金子を下げ渡して
里を富ませるように計らいなさったのでござります。

主の1244年、暴利をむさぼるハンザ商人に耐えられませなんだ領主たちが
ナコニド家慣習の大衆法廃止を要求いたしました。

「額に汗することなくパンを得るなど、主の御旨にかなうことではない。
イエズスがそうなさったように神殿から商人たちを追い出すがいい」

エイマール公は領主たちの異議をお認めになり、
封建法を採用なさったのでござります。

されど封臣たちの言うがままというのではござりませぬ。
主の1246年、エイマール公の御病気に乗じ
一部の領主が継承問題へ介入する動きを見せるといった事がござりました。

しかしエイマール公は選挙法であれ均分相続であれ断固として拒否し、
むしろその名を上げなさったのでござります。

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復興カペー朝フランス

主の1245年、ヴェネツィア伯ギヨーム・カペーがフランス王国を復興いたします。
この知らせにエイマール公はなにか感じるところがありなさったのか、
次のようにおっしゃったそうでござります。

「かつてノルマンディーのウィリアムはフランス王臣から身を立てて
イングランドをわがものとした。
海峡の向こうではカペー家がまた立ち上がったが、
この島に立つべきノルマン王家はもはや存在しない……」

スビェトペルクの訪問

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ブランデンブルクおよびエストニア公スビェトペルク

主の1250年4月、ドイツのヴェンド貴族スビェトペルク・シュターデンが
ノーフォークを訪れました。
ナコニド家に嫁入りした二人の姉を訪問するというのが
表向きの理由ではござりました。

「エイマール義兄様、ソロメア姉様、息災でいらっしゃいますか」

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ノーフォーク公妃、やさしの君ソロメア
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ドブロネガ・ヤークの娘であるウルスラとソロメアは
1248年、49年と続けてナコニド家に嫁入りした
二人は麗人ピロシュカ・ボルカラーンの孫娘にあたる
/
訂正)ロベール、エリカほか男子一名はアンリとソフィアの子ではなく、
シャルルとピロシュカの子。図は誤っている。

ところがソロメアは浮かぬ顔でござります。
スビェトペルクは焦ります。

「……やはり、我が家がエストニア公位を旧ドイツ王から奪ったことに
義兄様はわだかまりがあるのですか?」

いまやドイツ共和国の北の護りとなったシュターデン家。
ナコニド家がシュターデンからエストニア公位を取り戻さんとすれば、
それは即、大国ノルウェーと新生共和国との全面戦争になりかねませぬ。
賢い姉二人をノーフォークへ嫁入りさせたのは、
二大国のはざまに生きるシュターデン家の知恵でもござりました。

「馬鹿! あの人にはそんなことは思いつきもしない。
もうエストニア公位なんかにはこだわりがないの。
そうじゃなくって、私が気にしてるのはエリカのことよ」

そうささやくと、ソロメアは末席にひっそりと座った少女を指し示しました。

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エリカ・ナコニド
母ピロシュカに生き写しと評判の麗人であった

そうなのでござります。
エイマール公、年下の叔母にあたりますエリカと結婚するおつもりでござりました。
ところがウルスラから聡明な妹のことを聞くや、
急に気を変えられてしもうたのでござります。

それからというもの、エリカは塔のひとつにこもって泣き暮らしました。
これではソロメアの晴れがましい新婚生活も陰るというもの!
……もとい、なにより優しい心立てのお人でござりましたから、
従姉妹にあたるエリカの心中をおもんばかっておったのでござります。

「スビェトペルク。あなた、彼女に話しかけなさい」
「はい?」
「いいから」

その後いかにしてスビェトペルク公がエリカの傷ついた心を癒し、
彼女を娶るに至ったかというのは別のお話でござります。

こうしてソロメアはエリカをうまく片付けた……もとい、
フランク文化へ傾斜して久しいナコニド家と
ヴェンドの伝統を守るシュターデン家の紐帯を強めたのでござります。

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これはナコニド家がエストニア公位への執着を捨てたという意味でも
大きな事件でござりました。

悪魔の春

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エンゲルブレヒト・クヌートリング
第十一代ノルウェー=デンマーク王

父王ベルトルドの時代とは異なり、
クヌートリング王家とナコニド家の関係は冷えきっておりました。

まず当主たちの相性がようござりませぬ。
王はエイマール公を、エイマール公は王を嫌い抜いておりました。

王はつまらぬいくさに延々とノーフォークの兵を駆り出されます。
ドイツ、クールラント、ポーランド、ボヘミア……。
もう17年もふるさとに帰っておらぬ兵さえおるという噂でござります。
ふつふつと沸き上がる民の不満が目に見えるようでござります。

一方、遠いイングランドで力を蓄えるナコニド家は
王にとってはたいそう目障りなもの。
やたら粋がってフランクの言葉を話しておるのがまた王の気に入りませぬ。

「ヴェンドの沼地ガエルのくせに……」

ドイツとスラブの根深い対立は
かくも後代に至るまで尾を引いておるのでござりました。

そこにあの事件が起こったのでござります。

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王太子妃(当時)ウテ・ビルング
ナコニド家仇敵のビルング家長女
肥満で有名であった

1249年9月、エンゲルブレヒトのお妃が死体で発見され、大騒ぎになりました。
貴族たちはみな哀悼の意を表しましたが、その内心はどうであったやら……。
ナコニド家をはじめとする古いノルド系・ヴェンド系貴族たちは、
クヌートリング王家がドイツにべったりしすぎることを快く思うておりませなんだ。

「しかし、豚をしめるには季節が早いのでは」

ノーフォーク宮廷の誰かがそう言ったという噂はノルド中を駆け巡りました。
王は激怒したと伝えられてござります。

主の1251年夏、イーストアングリアの低地一帯を沼地熱が襲いました。
人も家畜も皆ばたばたと倒れ、命を失ってゆくのでござります。
エイマール公も倒れておしまいになりました。
長子シャルルも沼地熱に冒され、夏の終わりにはシャルル坊やの熱は肺に回ります。

「トロンヘイムで諸候会議を開催する。
ノーフォーク公は必ず出席するように」

寝床に伏せっておられたエイマール公に王都からの通達が届いたのは
その11月のことでござります。
身重ながら夫に代わって政務をとっておりました妃ソロメアは怒りました。

「わが領地、わが家族の難を知らぬわけでもないでしょうに……。
こんな王との関係は少し考え直したほうがいいかもしれない」

それでもソロメアはぐっとこらえ、通達に対して
「領国荒憮につき、また、病いを得て渡海が難しい」との返答を送りました。

これがようござりませなんだ。

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『ノーフォーク公エイマール、王に叛逆の意志あり!』

なんということでござりましょう。

これまでの忠勤、200年に及ぼうという王家への忠誠をすべて無しにして、
王はナコニド家に叛逆者の烙印を押したのでござりました。
病床のエイマール公は衝撃のあまりものもおっしゃることができませぬ。
宮廷は鬱々とした雰囲気におおわれてしもうたのでござります。

明けて2月、唐突に盗賊団がノーフォークの野に横行を始めます。
乱れぬ統率、よい装備、迷いのない襲撃、
あきらかにいずくかの手の者でござりました。

そうして4月1日、ソロメアの第二子が死産。
デーン人の産婦はあとかたもなく姿をくらましました。

13日後に幼いシャルルが長い闘病の末に息を引き取りますが、
これも誰が見たというわけではござりませぬ。
ふと乳母が目を離した隙にその小さな命をなにものかに吸い取られておったのでござります。

「イードの呪いだ!」
「いや土地を奪われたゲール人の呪詛だ!」

昔話にいう「悪魔の春」が来たと恐れおののく人々をよそに、
ソロメアは産所の寝床の中でじっと目を閉じておりました。

「不思議だ……腹にあの子らの痛み苦しみを感じる……。
もうこの世にはいない子らなのに。

エンゲルブレヒト、これがおまえのやり方か。
許さぬ。わたしは決しておまえを許さぬ!
おまえに刺客を送ろうか?
いや、もっと根深い傷を与えてやる。
エンゲルブレヒト、おまえが後世『あの男のせいで……』と言われるような深い傷を」

主の1252年6月、ドイツで小競り合いをしておったノルウェー軍の戦列から
続々とノーフォーク兵が撤退を始めました。

「王の名において命ずる! 止まれ!」

しかし、ノーフォーク兵の指揮官は命令に応じませなんだ。

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グレゴリー・ナコニド
エイマール公弟、宮廷付き司祭

「王というのはどの王か?
わがノーフォーク公国はいかなる王も戴かぬ独立公国である!」

ナコニド家はついに王家に叛逆したのでござります。

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灯し火も暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。



主の1276年

ナコニド家(リューベック)


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