シウニク家最後の当主。
相続法をサリカ法親族相続制、領地法を大衆法、宗教法を王権至上制へと変更し
1,000の兵を以ってDwin国を滅ぼした。
GREGORY侯は、斜陽のビザンツ帝国から老女を妻に迎えることを繰り返したため、
遺産狙いのロクデナシと言われたが、案外彼の趣味だったのではないかという噂もあったという。
1077年、謎の死を遂げることになるが、宮中では毒殺が噂されたという。
GREGORY侯の養子であり、史書では彼を以ってGardman-Aghbania家の始まりとしている。
彼の治世下では、大国アゼルバイジャンからの相次ぐ軍事的圧力と貢物の要求から
国庫は欠乏し、臣民は重税からの飢えに苦しんだという。
このような政治的問題に追われた侯は、精神に異常をきたし自殺を図ったという。
HOVHANNES-SENEK'ERIM侯が在位わずか2年で自殺したため、
彼の子であるRuben侯が若干10歳という幼さで即位することとなる。
先代から続くアゼルバイジャンからの朝貢要求もあり、
国庫は決して豊かとはいえなかったが、Ruben侯は精力的に国力の増強を図り、
彼らの要求に応えることに成功している。(何回も宣戦される→合計300gold以上和平に費やす。orz)
一方で、セルジュークとビザンツの戦いで揺れ動くアルメニア地方の動乱を利用し、
1082年には、Suenikを攻略し支配下に置くことに成功したのである。
Suenikを落としたことによってアゼルバイジャンとの力関係は逆転し、
1087年にはアゼルバイジャンへ宣戦布告。
1088年にはこれを滅亡に追いやることに成功した。
同年、Ruben侯はアゼルバイジャン公を名乗ることになる。
つづく