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ヴァロア公エリィ

家系図(トマス~)

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第二回十字軍

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イベリア半島では名君として知られるギィ・ヒメネス治下のカスティーリャ・レオン王国が再征服を推し進め、
セビリアの君侯が支配するコルドバを幾度も包囲し、ムスリムとの激しい戦いを繰り広げていた。
1164年、攻囲戦のさなかにギィが重傷を負って陣頭に立てなくなったため、ローマ教皇はコルドバ攻撃の援助を決定し、第二回十字軍が宣言された。

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「敬虔王」ギィ。彼の遠征でカスティーリャ王国は疲弊し、息子たちはそのつけを払わされることになる

先代ルイが見限ったイタリア王コンラート4世もまた名君であった。

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1167年にカスティーリャ王ギィが戦傷の悪化によって病死すると、コンラートはカスティーリャ王位を要求して同国に宣戦布告、
セビリア・エジプト連合軍による攻撃に苦しんでいたカスティーリャはコンラートの攻撃の前に王位を手放すことを余儀なくされた。
戦後カスティーリャ王国はその勢力と威信を大幅に縮小し、レオン王国として命脈を保つこととなった。
イタリア王国は拡大し、ヴァロア公領を除けばシャルルマーニュの支配領域に並ぶほどの領土を持つ大国となった。

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イタリアの統治が安定し、その勢力が常にフランスへ睨みを利かせているため、エリィは領土を拡大することができなかった。
ヴァロア公は間違いなくフランスに最大の勢力を持ってはいたが、
フランス全土の支配権を宣言してイタリア王のに並ぶ権威を手にするにはその勢力は少し小さかった。

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赤い部分がヴァロア公領、 黄色く塗りつぶされた地域がフランス王位宣言に必要な領土
フランス王位宣言にはあと2つの領土が必要

1180年秋、エリィは病に倒れ、冬になると病は悪化して肺炎となった。
死を覚悟した彼は第一継承者である弟で東フリースラント伯のルイにアミアンを与え、後継者として指名した。
しかし翌春エリィの病は回復し、ルイの公位継承はお預けとなった。

ヴェネツィア転覆

1182年12月、キリスト教世界を揺るがす事件が起こった。ヴェネツィア共和国でクーデターが発生したのである。
当時第二回十字軍遠征で目標コルドバを占領していたヴェネツィアに対してイスラム諸国が互いに聖戦を呼びかけたため、
戦争が地中海全体に波及、ヴェネツィアの交易網は大打撃を受け、財政は逼迫していた。
そんな中ヴェネツィアで給金の未払いを不服としたムーア人傭兵が反乱を起こし、
宮殿に乗り込んで元首らを殺害、頭領格のアジム・アッバスが新たな元首に就任することを宣言した。*1
各地の戦線で戦っていたヴェネツィア軍は大混乱に陥り、コルドバをはじめとする占領地は再びイスラム勢力に奪還された。
これを受けたローマ教皇はイタリア王コンラート4世に反乱の鎮圧を要請、
この機会にヴェネツィアの都をわが都とせんとしたコンラートはヴェネツィアに軍を進めたが、臣下のトスカーナ公が反乱を起こしたため撤兵した。

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ムスリムの元首アジム。住民の支持は当然得られず、ヴェネツィアは無政府状態となった

このころエリィはサンス伯を臣従させ、フランス王位までに必要な領土は残り一つとなった。

1187年、エリィは病を再発させて死亡した。享年62歳であった。
死後にはかねてからの決定どおり弟ルイがルイ2世として後を継いだ。


*1 単にムスリムの廷臣が元首に選ばれただけ

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