1082年
潔く全面降伏し、ハンガリーに降ることに。
ハンガリーの家臣となりました。
幸いにも領地の割譲はなしですみました。
君主が変わってもやることは同じです。
主君の弱体化を謀りクマンに戦争を仕掛けます。
これでハンガリーは東のクマン、南東の東ローマと戦争状態です。
1087年
イベントで待望のクレイムを得ました。
クロアチア公です。(クロアチア王ではないですよ。紛らわしいですが)
複数の州を経営するには公爵位はのどから手が出るほどほしかったものです。
1089年
クロアチア公爵位を要求し、宣戦布告。
クロアチア軍はハンガリーに向けて北上するはず。
海沿いのクロアチア領がもぬけの殻になるのを待ちます。
ころあいを見計らい、アドリア海をぬけてクロアチア公の領地ヴェリアに攻め込みます。
軍事1のPeterでは戦闘する訳にはいきません。
幸いにもクロアチア公の領地は1州なので、即効で落とせそうです。
1090年
Peterクロアチア公となる。
クロアチア公のおまけにザクルミア伯が封臣としてついてきました。
また、南に隣するマケドニア公のクレイムを隣国侮辱イベントで得ました。
ついでに、なぜかPeterはカトリックに改宗しています。
これが原因となりしばらく後に正教徒の廷臣の「改宗か死か」イベントが頻繁に起こります。
クロアチア戦はといえば、トゥルヌがクロアチアに占領されましたが
クロアチア軍はそれ以上進軍せず、首都タルノヴォは無事で一安心です。
翌年、主君ハンガリーがクロアチアと講和しクロアチア戦争は終結しました。
ハンガリーは北西のペレヤスラヴリ公国とも戦争をしており、相当疲弊しています。
1094年
Peterも55才。
直轄地3州を持つようになっても依然としてブルガリアの土地は東ローマ帝国の領土です。
東ローマ帝は代替わりし、直轄地14を持ち磐石の態勢。
このままではブルガリア王国再興などは夢のまた夢です。
なんとかせねばなりません。
そこで、ハンガリーから東ローマに鞍替えし、内部から東ローマを崩壊させる算段に出ることにします。
幸いにも東ローマの封臣であるマケドニア公のクレイムを持っているので東ローマに戦争を仕掛けることができます。
で、戦をしかけました。
速攻で有り金を差し出して、無条件降伏を提案します。
2度めの交渉で和平が成立し、東ローマの家臣となりました。
東ローマは旧君主であるハンガリーと戦争となるので思う壺です。
頃合いを見計らい、イスラム諸国に次々と戦争を吹っかけます。
東のデルベント(グルジアを飲み込んでいます)
南東はバクダッドのモスル。
及びエジプト。
南のキレナイカ。
南西はチュニジアのハンマード。
Peterは有り金はたいて宣戦の都度和平しているので自国は無傷です。
おまけに東ローマはクロアチアとも戦争を始めました。
四方から攻められています。
東ローマが講和に及んでも、しつこく再度講和先(の封臣)に戦争をしかけます。
東ローマは、内乱の危機までもらっています。
1104年。
Peter 65才。
長男のVukanが死に後継者は孫のKonstantin 10才です。
戦争をしかけては有り金さしだして和平しているので今や威信は-529です。
地に落ちています。
孫のために泥臭い威信マイナス作業はPeterが面倒見るので
その孫が成長するまでもうしばらく長生きして欲しいところです。
1108年
Peter Assen死去。69才。
大往生でしょうか。
4男4女をもうけましたが(1人は庶子です)
長男を含め2男2女を喪っています。
長男の子(孫)Konstantinが後を継ぎます。