ドウロ川を越えて

ルシタニアはヨーロッパ大陸の西端に位置する。
ユリウス・カエサルにより征服されたこの地は次第にローマ化し、
街道や水道橋、美しい大理石の街並みを持つ
中心都市コニンブリガは繁栄を極めた。

やがて西ゴート王国の侵入によってコニンブリガが衰退すると、
代わってルシタニアの中心都市となったのがアエミニウムである。
この都市は西ゴート人によってエミニオとも呼ばれた。
また、キリスト教が広く浸透したのもこの時期であった。

しかし、その繁栄は長くは続かず、
711年にはイスラム教徒の攻撃によって西ゴート王国が滅ぼされ、
エミニオは数百年の間、ムスリムの支配を受けることとなる。
北部に逃れたキリスト教徒が体勢を立て直し、
エミニオ―コインブラの街を奪い返すのは1064年。
ヒスパニア皇帝フェルナンド1世の時代だった。

コインブラ攻略の功績により、モサラベの貴族シスナンドは伯爵の位を授けられた。
翌年、フェルナンド1世は崩御し、彼の帝国は王子達に分割された。

1066年、シスナンド・デ・コインブラはポルト公爵の娘婿となり、
ドウロ川を挟んで対岸に位置するムスリムへの防衛を任されていた。
特に隣接するリスボンの太守ムハンマド・ガシムとは敵対関係にあった。

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妻ロバは4歳年下であり、1歳になる娘エルヴィラを既にもうけていた。
夫妻は深く互いを愛し、信頼し合あっており、
家令である妻は懸命に資金を管理し、ある時は秘密で大金を用意し、夫を驚かせた。

1068年、次女サンシャが産まれ、国中が祝福ムードに包まれたが、
年内のうちに夭逝してしまい、またあろうことか長女エルヴィラまでもが3歳で天に召され、
さらに領内に赤痢が蔓延するに至って、歓喜は絶望へと変わってしまった。
「神よ、我らを救い給え」

1069年、待望の男子であるサンショが産まれる。
彼は疫病と貧困にあえぐ領内の人々にとっての微かな希望となった。

1071年、シスナンドはブラガンサ伯爵オルドーニョの敵意を確信する。
ポルト公爵の娘婿として寵愛を受け、また将来は公爵位を継承するであろう
コインブラ家への嫉妬であることは明らかだった。

「今はまだいいが、異教徒との戦いの際に邪魔をされれば、厄介なことになる…」

シスナンドはその後イスラム教徒であるアルカンタラの太守と協力関係を構築した。
アルカンタラ太守アブドゥル・カディル・オマルはムハンマド・カジムを敵視していたのだ。
敵の敵は味方という考えで、挟撃を防ごうと考えたのである。

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その後、次男アルヴァロと三女フィリッパが産まれ、後継者に関する懸案事項はほぼ解消された。
1073年までに赤痢も撲滅され、コインブラの未来がようやく明るい者に見え始めた。
国家事業として漁港の開発が決定され、工事は順調に進んだ。

10月、ムハンマド・カジムの差し金か、隣国エヴォラの太守ヤヒル・アル・アフタスが
シスナンドへの敵対的姿勢をあらわにし、馬上試合において侮辱的な態度を取った。
シスナンドは謝罪と撤回を求めるも、向こうはそれを無視した。
ポルト公爵ヌノはシスナンドの味方について、彼がエヴォラの領有権を主張することを支持した。
エヴォラ攻撃の大義名分を得たのである。同時にブラガンサ伯爵も孤立化させることができた。
もっとも、コインブラには戦争を始める余裕は無かった。
内政の充実こそが目下最優先事項だったのだ。

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1075年、シスナンドは5歳となった長男サンショをポルトの宮廷へ留学させる。
公爵は要請にすぐに承諾し、孫の養育を引き受けた。
4月、サンショはポルトへ移った。
聖都イェルサレムの奪回の御言葉が教皇を通じて神より発せられた日であった。
十字軍の時代が始まろうとしていた。

しかし、イスラム教徒の軍勢はあまりにも強大だった。
ヒスパニアではレオン王国が滅亡させられ、残党はカスティーリャに合流したが、
次に攻められれば確実にカスティーリャも滅ぼされてしまうだろう。
旧レオン領であり、ブラガンサの北東に接するエル・ビエンソもムスリムの手に落ちた。
ルシタニアのキリスト教徒の間では危機感が高まっていた。

それから3年後、イベリアのキリスト教徒たちにとって喜ぶべきことに、
アンダルスのイスラム教徒同士に大規模な戦争が始まった。
セビーリャがバダホスを攻撃したのである。
数に劣るバダホスはみる間に兵力を減らした。

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ポルト公爵はこの機会に乗じて南部へ侵攻しようと考え、
バダホスとその属領に対して宣戦布告した。

「攻撃こそ最大の防御なり。」

コインブラにも動員令が送られてきたが、シスナンドは少し迷った。
バダホスの首長とはすでに友人関係にあったためである。
しかし、結局は700余りの兵を提供することに同意した。

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ポルト公爵の軍は3000以上の勢力となり、
手始めにまずアルカンタラを攻め落とした。
次に兵力を2つに分け、リスボンとエヴォラの包囲が始まった。
コインブラの軍勢はエヴォラへ送られ、
1079年の春には、城を攻略した。思いがけず、
馬上試合での屈辱を晴らすことができたわけである。

その後、シスナンド率いるコインブラ軍はアルカセル・ド・サルを攻め落とし、
リスボンの包囲軍と合流した。他の砦とはわけが違った。
小さいものではあったが、リスボンは城を持ち、包囲は困難なものとなった。

10月、リスボン-ポルトの間に和平成る。
ポルト公爵はリスボンの領有主張権を認めさせ、軍を引かせた。
軍は北上してエル・ビエンソを攻め落とし、さらにオビエドを包囲した。
驚くべきことに、オビエドの包囲ではポルトとセビーリャ、
キリスト教徒とイスラム教徒が協力して包囲を行うという事態となった。

1080年5月、バダホスとの和平が成立。
かつての大国の面影はそこになく、シスナンドは、本拠地を全て奪われ、
飛び地であったオビエドに逃れざるを得ないその姿に哀れみを感じた。
その後、オビエドもまたカスティーリャによって攻め落とされると、
バダホス首長はさらに属領メルトラへ逃れることとなる。

しかし、戦争はまだ終わっていなかった。
混乱に乗じて宣戦布告してきたムラービト朝との和平が成立していないのだ。

6月、ポルト公爵はアルカンタラの支配権をムラービト朝に譲渡することで、和平を成立させた。
新たに手に入れた領土のうち、エヴォラは直轄領となり、
アルカセル・ド・サル、エル・ビエンソはポルトの女性廷臣に与えられた。
ここにルシタニアにおける"再征服"は大きく前進することとなる。

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しかし、コインブラにとっては手放しで喜べる状況ではなかった。
2年にわたる戦争の間に国庫は空となり、莫大な借金を背負うことになったためである。
領地の安全はある程度保証されたものの、領地を新たに手に入れたわけではなく、
歳入は相変わらず雀の涙だった。領内の治安も悪化し、盗賊団が横行した。
シスナンドは地元貴族の協力を得るために頭を下げねばならなかった。

11月、異教徒の戦いにおいて大きな成果を残したポルト公爵ヌノ死去。享年56歳。
公爵位は、ヌノの孫にしてシスナンドの息子サンショが継承したが、いまだ11歳の少年であり、
シスナンドは後見人として公国内での立場をさらに強固なものとした。

続く...


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