フランス王国は、かつてのカール大帝が築いた西ローマ帝国の残滓、西フランク王国から生まれたものである。カトリング家断絶の際にただのパリ泊という小さな領土の領主のカペー王家に王冠が転がり込んだのは、その力の弱さが原因である。王国全土の諸侯による選挙により最も王にして自分たちの領土に最も影響が無いものを選んだのである。それがカペー朝の始祖、ユーグ・カペー。
物語は彼の曾孫、フィリップの時代、1066年フランス王家の配下であるノルマンディ公ウィリアムがイングランド王になった時より始まる。このとき若干14才であった。
しかしながら聡明な彼は自らの使命を理解していた。フランス王といっても名目的なもので直轄の領土は、パリ及びオルレアンの2つのみであり、諸侯が大きな力を持っている。王の力を増し、これは直轄の領土を増やすという意味だが、諸侯を圧する力を持つことである。
1068年成人したフィリップは、母であるアンナの進めにより、カスティリア王の妹であるサンチャと結婚することとなった。年の差は10歳。あからさまな政略結婚とも、サンチャがカスティリアでみせていた執事の能力にフィリップの母が惚れこんで結ばれた婚姻とも噂される。
噂はともかく、彼女が持ってきた持参金を無駄に使うのではなく領土の発展のために使ったのは新しい執事の妻サンチャのお陰だろう。
1069年には長女セシールが生まれた。同年次女エルメンシンデが生まれる。
1071年には三女ブランチェが生まれた。世継ぎが中々生まれないことに対し、王の弟ユーグに次ぐ第2後継者であるブルゴーニュ公が悪魔と取引を行っているのではないかとカペー家内ではまことしやかに信じられていたのである。
しかしながら1072年、長男ピエールの誕生により、密かな悪意を持った噂も消え去ることとなった。カペー王家内ではお祭り騒ぎが発生し、世継ぎ誕生をパリの住民も大いに祝ったのである。
1073年には弟ユーグが成人。前王の忠実な配下であったポンティエウの忘れ形見であるアデレスと婚姻を結んだ。これは前王が亡くなる際に母アンナに対し告げた遺言の執行でもある。
フィリップは聡明であった。彼よりも力が強い公爵がいるフランス本土で勢力を伸ばすよりも、イスラムの勢力が多いイベリア半島で力を伸ばし、十分力がついてから諸侯を始末したほうが良いことを知っていたのである。また、イベリア半島のイスラムを征伐することは法王の心にも留まる事も計算していたのである。
1077年彼は諸侯に対し軍を提供するように布令をだした。しかし従ったのはわずか2家であった。しかし彼は強引にサラゴサ地方を治めている異教徒に対し聖戦を行ったのである。
2年半に及んだ戦争は、妻の内助の功により財政も破綻せずサラゴサ一帯の4つの領土を獲得することが出来た。イベリア半島のイスラム勢力は、フランスよりも圧倒的に進んだ技術、文化を持ちこれらの文化にフランス国王及び参戦した諸侯は目を見張ることとなった。
なお戦争中の1078年に4女コンスタンスが誕生していた
1082年5女アグネスが誕生。半島での内政に時を費やしている間にヨーロッパに激震が起こった。聖地エルサレムにおけるキリスト教徒に対する迫害を看過できなくなったローマ法王が十字軍の結成を呼びかけたのである。しかしながら、フィリップには先の戦争でこれに応える力が残っておらず、しばらく静観することとなった。
1085年長女セシールが成人。妻の一族であるナバラ国王からの結婚の申し込みを受け入れ嫁いでいった。半島での勢力拡大に役に立つとの判断が有ったとも言われる。
1088年妻の実家であるカスティリア王国がイスラムの手により滅亡させられた。妻サンチェは一族の行方を心配し三日三晩涙に伏せたという。フィリップは逆に、この機会に現在空位となったカスティリア王冠を自分のものにするという野望を胸に抱いた。
1089年息子ピエールとバルセロナ公4女との婚姻が成立。彼女は、イベリア半島の特異性と言われるかもしれないが、アラブの異教徒と同じ文化を持つ。しかしながらこれもイベリア半島支配のための布石であったが、世間には追い詰められたキリスト教徒団結のしるしとして受け取られた。婚姻の祝いとして、ピエールには、サラゴサ伯爵の称号と領土を与えられた。
1090年次女エルメンシンデが死亡。父フィリップは彼女の死を甚く悲しんだ。1092年にはピエールに男子が誕生。妻の言い分を取りアブダル・サマードと名づけられた。しかしながら1093年にはその人生を終えてしまった。祖父として一度も顔を見ないままの孫であった。
1098年再度戦争の鐘が鳴らされた。相手はイベリア半島を闊歩するイスラム勢力である。相手は半島南東部に根拠を持つバレンシア太守である。戦争は2年間に及んだが、バレンシア太守の勢力を一掃し、半島南東部及びマジョルカ島をその支配下とした。
1101年最愛の妻サンチェがなくなった。しかしカペーの血を引く男子を増やすことこそ王家の繁栄と信じているフィリップは後添えをもらうこととした。1102年には、新妻イブとの間に5女ヨランデが誕生。1103年には6女アルモディスが誕生した。しかしこのとき既にフィリップの寿命は終ろうとしていた。
1104年38年の統治を終えたフィリップはこう叫びその一生を終えた。
「カペーに栄光を。フランスに栄光を」
そして
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