「宗教に関係する問題を知ろう!」というコーナーです。
宗教は十字軍時代に密接にかかわりあっています。
これらを知ることによってよりCKを楽しめるでしょう。
カトリック中央協議会
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/pope.htm
マスコミや関係各社などにも「教皇」と表示するように積極的に訴えかけているようなのですが、登録するさいに外務省に「法王庁」と申請してしまったために、今でも良く「法王」と表示されてしまうそうです。ちなみに政変や内乱などで国家や国名が大きく変わらないかぎり変更はされないらしいので、多分ずっと「法王庁」とされてしまうでしょう。
なお本稿ではカトリック中央協議会決定を優先し「教皇」。その政庁を公式文章にのっとり「法王庁」に統一します。
大司教以上の人の尊称なので「貎下」と書いても間違いではないのですが、やはりここは一つ「聖下」という尊称を使ってみてください。
日本政府は、ローマ法王“台下”と使っていますが、仏教等のトップでない人にも使うこの敬称は誤りに近いものだと思えます。
理論上は「教皇」とは神の名の下に諸侯の法を束ねる長であり、ようするに神の執行代理人なわけです。もっとも中世においては、俗界君主(つまりは国王や皇帝たち)から、俗界のことは俗界君主、聖界のことは聖界君主(=教皇たち)という線引きをしようという動きもあり、その地位については論争がありました。この論争が表面化したのが「カノッサの屈辱」事件でした。教皇の破門宣告に皇帝が屈したこの事件により、教皇は皇帝すら凌駕する権勢を得ることになります。
その破門、異端宣告は大きな力を発揮しました。要するに西欧ではカトリック教徒ではないと認定されたものは人として扱われなかったのです。カノッサの屈辱事件で破門を宣告されたフリードリヒ4世は、臣下のドイツ諸侯から忠誠拒否を突きつけられて屈服したのでした。
しかしながらその姿勢、特に聖ペテロの後継者という聖界君主として信徒を指導する立場にあると同時に、教皇領の君主、つまり世俗の中部イタリアの一君主としての顔も持つということは、次第に矛盾を引き起こすことになります。
特に十字軍運動が形骸化し、フランスによってアヴィニョンに教皇が擁立されるようになると、教皇の権力の低下も無視できないものとなりました。
15世紀になってアヴィニョンの教皇とローマの教皇、ピサの教皇が統合されて教会は立て直されますが、それと前後してボヘミアでフス派、次いでドイツでルター派が生まれ、カトリックの宗教分裂がはじまります(このあたりについてはCKの続編にあたるEUでお楽しみあれ)。
17世紀以降はカトリックに留まった諸国でも自前の国教会を作る動きが活発化、教皇の権力は形骸化の一途をたどりました。
そしてイタリア統一の結果教皇領も奪われ、教皇はカトリックの精神的な長という立場に立って再出発することになります。
現代ではカトリック教会に属しない人間のほうが遙かに多いわけですが、仮に信心深くない、あるいはカトリック信者でなくても、全世界の十数億の信徒の長ですから、その影響力を無視することはできないでしょう。
クルセイダー・キングスではランダムで決まる教皇聖下。
現実には、80歳未満の枢機卿達による選挙によって次期教皇が決められます。
教皇の資格は、カトリック教徒であること。ただそれだけです。
カトリック教徒ならば誰でも教皇に選ばれることがあります。
そのため、片田舎の羊飼いが教皇に選ばれる可能性もあるわけです。
といっても全世界の信者の代表となるべき人物は、信仰心はもちろんのこと高い見識と知性と教養が必要となりますから、教皇の次に偉い枢機卿や大司教から選出されるのが一般的です。
あと、特に規定ではないのですが、法王庁がローマにあることからイタリア人がなるケースも多く、四百年間連続して教皇がイタリア人から選出されていた時期もありました。またフランス王の影響が強かったアヴィニヨン時代にはフランス人教皇が多いなど時代を反映しているわけです。
といっても教皇が自ら退位をもらした場合は別とされています。先代教皇ヨハネ・パウロ二世聖下はパーキンソン病にかかり、退位するのではないかと憶測がながれたこともしばしばありました。しかし最後まで教皇の座に着いたまま天寿を全うされ、ベネディクト16世が後を継ぎました。
退位した教皇はグレゴリウス12世、廃位された教皇はヨハネス23世・べネディクトウス13世と教会大分裂の時期(1378年〜1417年)に集中しています。
世界総主教公式サイト(英語)
http://www.patriarchate.org/