1152年、イタリアの同盟国トスカナ公国より救援要請の使者が訪れた。南に境を接するシエナ伯国に攻め込まれたというのである。
トスカナ公国はすでに十分な兵を動員しており、両国の力関係から我が国が手を貸すまでもないと思われた。
しかし、わざわざ使者をよこした手前、手ぶらで帰すわけにも行かない。マイセン公は同盟の約定にのっとり、シエナ伯国に宣戦を布告した。
ところがである。マイセン公がシエナ伯と戦争に入ると間もなく、同盟国のはずのトスカナ公国とその配下のパルマ伯国が、マイセン公国に対して公然と宣戦を布告したのだ。
シエナ伯国と戦うためと見せかけた兵の動員は、実はマイセン公国に向けられたものだったのである。
かくして、マイセン公国は一度に3つの敵を抱え込むことになった。新たなマイセン公にとって初めての試練である。
マイセン公は領内に動員令を発すると、守りの体勢に入った。遥かイタリア半島まで遠征しても得るものは少ない。むしろ、遠路はるばる行軍してきた敵を各個に迎え撃つ策を選んだのである。