ナコニド家(リューベック)/主の1159年。この年、王子ハルザクヌートはデーン人の王となった

'''主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた。
イタリア、フランス、ドイツ、ルーシの各地から、かつてない大軍勢が聖地へ向かった。'''
(『デーン年代記』)

不吉な婚礼

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ノーフォーク公の娘イード・ド=モンフォール
エストニア公オトカルの二番目の妻

'''わたしの赤ちゃんはどこ?
わたしのラドスラフはどこ?'''

レヴァルのお城に夜ごと女の幽霊が出るという噂でござります。

かの華々しき『諸王の十字軍』よりさかのぼること6年、
主の1187年よりわたくしの話を始めることにいたしましょう。
ナコニド家は二代続けてイングランドの名家ド=モンフォールより妃を迎えておりました。

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ド=モンフォール家とその領地、ノーフォーク公国
黒枠、赤枠は不審な死をとげたド=モンフォールの子供たち

クヌートリングやレオフリクソンといったノルドの名家を差し置いてのことでござります。
口さがない人々はさかんに噂いたしました。

「あそこの血はあまりよくないのだが。女ばかり産まれる」
「あれはシャンパーニュ公家から来た『不細工ベティ』のせいさ」
「違いない。ルイの娘たちがこれまた母親そっくりの不細工ぞろいときた」
「ふん、ナコニドの連中が顔なんて気にしてるものか。
あいつらが何をたくらんでいるのかなんて決まっているだろう……」

最初にレヴァルに嫁いだ長女ベアトリスが病に倒れると、
ナコニド家は続けてド=モンフォールの次女イードを妃に迎えました。

折しも、狩り場に迷い込んだド=モンフォールの長男次男が
誤って狩人に射抜かれるという悲劇のあとでござりましたから、
この結婚は両家に垂れこめた厄を祓うものとしていたく歓迎されました。

ところがでござります。
イードは待望の男児ラドスラフを産んだあと、城の使われておらぬ塔のひとつで
自らくびれて身まかってしもうたのでござります。

「ああ怖ろしい……怖ろしい……」
「これはもう」
「ええ。ひとつしか考えられませんな」

ノーフォークの人々は声を押さえて陰鬱な憶測を述べあいました。
これにお怒りになったのがルイ公でござります。

「馬鹿なことを申すな!」

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ノーフォーク公ルイ・ド=モンフォール

 1178年、ピーターバラの会戦でフランス王に完敗したルイは

フランス王位請求権の放棄と2657ポンドもの賠償金支払いを余儀なくされた

ノーフォークの人々は口をつぐみます。
ピーターバラのあと困窮しておったド=モンフォール家を救ったのが、
バルト交易で潤うナコニドの婚資金であったことをみな存じてござりましたから。

ルイ公は「三女アデレードを娶りたい」という
ナコニドの新たな申し出さえお受けになりました。
こうしてド=モンフォールからエストニア公オトカル・ナコニドのもとへ、
三人目の花嫁が嫁いだのでござります。

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アデレード・ド=モンフォール
エストニア公オトカルの三番目の妻
その容貌は母エリザベス・ド=ブロワに瓜二つであった

「ナコニド家……」

婚礼のあいだ、幾度も幾度も、声をひそめて、
その呪わしき名が宮中にささやかれるのでござりました。

アラビアにて

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タブク修道院は砂漠のただなかにあった

「それで、身どもにどうせよと?」

黒衣の僧が幼児を抱えた使者に聞きました。

「ラドスラフさまがお育ちになるまでお護り願いたいのでござる。
北国は恐ろしいところ……なにか情勢の変化があったれば、
若君のお命に危険が及ばぬとも限らぬ」

ここはイェルサレムとメッカのあいだにござりますタブクの砂漠修道院。
隊商や十字軍の兵士すら寄り付かぬアラビアの僻地でござります。
先代ノーフォーク公がこの地を十字軍によって勝ち得たのでござりました。

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アラビアへ移ったノーフォーク公家と若君ラドスラフ

「若君とな。なぜノーフォークの本家へ預けなさらぬ?」
「ルイ公が戦で亡くなられたので、本家も無くなり申した。
ノーフォークはド=モンフォールの分家が治めてござる。
強いていえば、若君のおられるこのタブクがド=モンフォール本家」

幼児は目をぱちくりさせてやりとりを聞いておりました。
ああ誰が知りましょう、ノーフォーク公にしてエストニア公位第一継承者、
ラドスラフ・ナコニドがはるか南の砂漠まで逃れてきておりますことを!

「身どももド=モンフォールの苦難は聞いておる。
厄介な連中に目をつけられたものよの」

「ことにドゥース・ド=モンフォール、あの方が裏で糸を引いておりますれば」

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ドゥース・ド=モンフォール
ナコニド家尚書長、エストニア公オトカルの母

黒衣の僧は首肯いたしました。
実質的にエストニアを動かしておるドゥースの噂はこんなところにまで及んでござります。
実家であるノーフォークを砕き、呑み込みやすくするために彼女が講じた数々の手管とともに……。

「……ドゥースさまは恐ろしい御方でござる。
乗っ取るつもりのノーフォーク公に5人もの娘御がいらっしゃることは
ドゥースさまの悩みの種でござった。

そこで、ド=モンフォールの娘が売りに出るたび
(ああ、許されよ! 拙者の言葉ではござらぬ)
ナコニドが買い、これに男児を産ませたあとで殺し、また次のを買い、
とにかくルイ公の娘をよその家に渡さないおつもりなのでござる」

何度聞いても、ぞっといたす話でござります。
同じ一族だと申しますのに、嫁入りしてナコニドの男児をなしたというだけで
女というのはこうも簡単に転びますものか。

「母君イードさまは信心の深い御方でござった……。
ラドスラフさまを善きキリスト者として育てていただくよう、拙者からもお願いいたす。
そして善き騎士としても。
なにせ長ずればノルドの大領を一身に背負う御方ゆえ」

「申すに及ばず」

そうして黒衣の僧はヴェンドの地からやってきた幼児を抱き上げ、
その疑いを知らぬ栗色の目をじっと覗き込むのでござりました。

聖週間までには

吹雪の夜、レヴァルのトームペア城。
ゆらめく蜜蝋の灯りのもとで、鵞ペンをインクに浸し浸し、
ひとりの女が書き物をしております。

「……『四旬節が終わるまでにノルウェー王も護教の戦列に加わることでしょう』
いや、『聖週間までには』のほうがよい……」

芯切り鋏で蝋燭の芯を切って明るくいたしますと、
ドゥース・ド=モンフォールはゆっくり腕を回して体をほぐしました。

「いくさ、いくさ、またいくさか」

主の1193年2月、世に言う『ノルド大乱』が
ようやく終わりを告げたのでござりました。

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シュレスヴィヒ・クヌートリング家はカレリアの凍土に潰えた
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叛逆者ニールスはいずことも知れぬ地で野垂れ死んだ

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北の辺境ラップランドに追いつめられた偽王イングリング

デンマーク王シグトリグの死より数えて34年、
ただひたすらに裏切り者を追いつめることだけを考えて参りました。
そうしてこの2月、ようやく偽王イングリングの残党を
エストニア軍とノルウェー王軍の挟撃によって壊滅せしめたのでござります。

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主の1193年3月、ノルウェー=デンマーク二重王国が成立
28年ぶりにデンマーク王冠がクヌートリング家の手に戻った
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1193年、エストニア公領

 十字軍遠征による後継者の消耗に備え、新たにナコニド3分家が創設された

/
ノルド大乱期、ナコニド家は防備しやすいエストニアへ拠点を移していた

「デーン系ナコニドはすべて放逐し、領内はヴェンド系家臣で固め終えた。
かねて狙っておったノーフォーク公位もナコニドの手に帰した。
これで安心して十字軍に参加できるというもの」

ドゥースは止まっておった筆を進めます。

「主の大いなる御力もて……
'''『主の大いなる御力もて、異教徒どもは必ずや漠東へと放逐されるでありましょう。
恩寵が猊下の上に、また十字軍士たちの上に常にございますように。
主の平和 +』'''……」

ドゥースは書簡を折り畳み、封蝋に指輪で印を押しました。
控えてござりました女官がそれを受け取ります。

「ソールズベリ、最速達で」

教皇アンリの座するイングランド、ソールズベリ聖庁へ
この書簡が届くには20日ほどを要しましょうか。

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『鋼鉄教皇』、ソールズベリのアンリ

不屈者、鋼鉄の人、ソールズベリの堅塞と称される教皇アンリは
このたびの『諸王の十字軍』の旗振り役でござります。
セルジュク臣領に厳しく包囲されつつも、教皇は数度にわたる十字軍を切れ目なく組織し、
異教徒と対峙なさってこられたのでござります。

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左:1147年、イングランド王国 このほかイスパニアの過半を領していた
中:1179年、アル=アンダルスのセルジュク勢はイングランド王国を崩壊させた
右:1192年、ドイツ王はエセックス一帯を異教徒のくびきから解放した

教皇アンリは生涯のうちにローマ、コンスタンティノープル、イェルサレムの
三都をすべて回復することを誓っておいででした。
そのためにあらゆる策を弄して諸候を十字軍へと駆り立てました。

エストニア公領の場合、それは破門の脅しでござりました。
ド=モンフォールがらみで威信も教会の信用も失っておりましたナコニド家に因果を含ませ、
イングランドからさっさと異教徒を追い出すように約束させなさったのでござります。
もちろんこれがイングランドを席巻する勢いのドイツ王に対する牽制になりうることは
申すまでもござりますまい。

「古狸め……!
だが真に重要な戦場はイングランドなどではない。
私はキリスト教世界の命運を決するのはイスパニアとロマニアだと見ている」

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1193年3月、諸王の十字軍にノルウェー王が加わった
/
セルジュクの主攻線はアル=アンダルス(イスパニア)からの海路と
ロマニアからヨーロッパへ至る陸路であると考えられる
/
スコットランド王軍、ドイツ王軍、ポーランド王軍の動き激しく
スペイン北部とボヘミアでかなりの激戦が行われている模様

ドゥースには解っておりました。
このたびのいくさが、これまでナコニド家が経験したような
田舎領主の私欲を満たすケチな地方十字軍では到底終われませぬことを。

すでにイスパニア4王、スウェーデン王、イングランド王が屠られました。
セルジュクは大きくなりすぎ、力を蓄えすぎました。
いまここで無傷のノルウェー王国が十字軍の下支えをしておかねば、
キリスト教徒の王が一人もおらぬという末法の世がやって参るやも知れませぬ!

「かも知れぬ、ではない。
手をこまねいておれば確実にその日がくる。

……それも面白いか」

そう独り言を申しますと、ドゥースはペン先をインク皿に浸し、
また別の書簡の作成に取りかかるのでござりました。



灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。



主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた(後編)

ナコニド家(リューベック)


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