ナコニド家(リューベック)/主の1136年。この年、王エーリクは海岸でトルコ人の大軍を迎え撃った

王が死んだ

'''主の1159年。この年、王子ハルザクヌートはデーン人の王となった。
ドイツやルーシの王は大いに喜び、「今やノルドの地は我らのものだ」と口々に言った'''(『デーン年代記』)

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デンマーク王シグトリグ・クヌートリング
スヴェン王の直系5代目

「静かに、静かにお運びしろ! 揺らすな!」

戦線にほど近い、エルベ河畔の僧院でござります。
ひっきりなしに運ばれてくる負傷者をかきわけて、
騎士に警固された輿が中庭に突き進んでまいりました。

「御様子はどうか!」

騎士が医師の胸ぐらをつかみますも、医師は首を横にふるばかり。

「もう私の仕事ではない。司祭をお呼びなされ」

噂はたちまち広まりました。
司祭が王に終油の秘跡を授けておりますあいだ、
僧院の中庭では屈強なデーンの戦士どもが

「陛下が死んだ! 陛下が死んだ!」

と子供のように大声をあげて泣きじゃくっておったのでござりました。

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王国宰相オズワルド・レオフリクソン

ところかわってオーデンセの都。
城の大食堂で、宰相レオフリクソンは諸候を前に口をひらきます。

「では、反攻計画を確認いたそう。
王軍とシェラン公軍は引き続きエルベ線を防衛」

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主の1158年、キエフ大公は配下のカレリア人が攻撃されたとしてデンマークに宣戦を布告
大公と同盟を結んでいたドイツ王がバルト海へ向けて北上を開始した

「シュレスヴィヒ公はリトアニアとヴォルガからキエフを挟撃。
エストニア公はメクレンブルクからパリまでドイツ王領を打通せよ。

……うむ、あいわかった。
おのおのがた、王陛下が卿らに謁見をたまうとの仰せ。
この機会におのれの忠誠をあらためて誓うがよい!」

と、大食堂の扉が開け放たれました。
蝋燭の光のゆらめくなか、侍女に手を引かれた幼児が入ってまいります。

「すべてのデーン人の王、ハルザクヌート王陛下である。
クヌートリング王家に栄えあれ!」

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デンマーク王ハルザクヌート・クヌートリング
スヴェン王の直系6代目

「栄えあれ! 栄えあれ!」

王は不安げでいらっしゃいました。
幼い王は並みいる諸候を怖ろしげに身をすくめてごらんになり、
そうしてすぐに侍女の裾もとにすがりつかれるのでござりました。

「敵はドイツ王、キエフ大公だけではない。
王国の危機につけこんで叛意を抱く者がおるとも聞いておる。
王をお護りするのだ、何があろうとも!」

引き裂かれた家

「皆の者、パリはすぐそこだ!」

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第三代エストニア公バルトシュ・ナコニド

バルトシュ公は兵を励ましました。
エストニア公軍はドイツ王領フランドルを荒し回ったのち、
ついにパリの都にまで到達しようとしているのでござります。

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主の1162年2月、エストニア公軍2600はドイツ王領パリに進出した
ただしドイツ王領の過半はアルプス以南にあり、攻略が難しい

されど兵どもが考えておりますのは、みなふるさとのことばかり。
エルベ線を突破したドイツ王軍はすでにホルシュタインの野を蹂躙しておりました。

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同年同月、ドイツ王軍19000はリューベックを占領、ユラン半島を北上し始めた
レヴァルで雇用されたバスク傭兵2000が海路リューベックに向かっている

「畑は無事かのう。馬っこは無事かのう」
「なんでわしらがこんなとこまで……」
「そうとも、ザクセン野郎はともかく、フランク人には恨みはないで、わしら」

兵の不満も高まってまいりました。
思い出されるのは出征前の母君ローザの言葉でござります。

「生粋のヴェンドであるおまえが、デーン人どもに、
ましてやクヌートリング家になんの借りがあるというの!?」

バルトシュ公は答えて申しました。

「母上、確かにわたしはヴェンド人ですが王の臣下でもあるのです。
曾祖父ブディヴォイが忠誠を誓った以上、
ナコニドの当主はクヌートリング王家に仕えるのが定めです」

まだ若いバルトシュ公の心のうちは王への忠義に燃え上がっておるのでござりました。

「このいくさ、すでに勝ち負けではなくなっている……。
これはもはや王への忠誠心に対する試練だ!」

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主の1162年1月、戦火のなかでデンマーク王国は4つに分裂した

明けて1162年、バルトシュ公の暗澹たる予感は現実のものとなりました。
シェラン公、シュレスヴィヒ公、スコーネ公が次々に謀反を起こし、
有力諸候で王に従うのはエストニア公だけとなったのでござります。

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叛逆者ニールス・クヌートリング、シュレスヴィヒ公
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恩知らずのヘンリク・フヴィデ、シェラン公
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カルマルのスヴェルカル、スコーネ公

そのような中、パリを失陥したドイツ王が
デンマーク王に和睦を求めてまいったのは朗報でござりました。
されど病者をついばむ鴉の群れのごとく、
王国には次々と新たな攻め手が寄せてまいったのでござります。

試みに、その呪わしき者どもの名を挙げ連ねてごらんにいれましょう。

ノルウェー王、トロンデラーグ公、シュレスヴィヒ公、
キエフ大公、スモレンスク大公、ロストフ大公、
ボヘミア王、オストラバ司教、ポロツク伯、
ヴォルガスト伯、クマン族、ウラル族。

いずれもエストニア公には領土請求権がなく、じかに戦うことはかないませぬ。
ドイツ王との休戦以来、公は王の要請に応じて兵を差し出されるのみでござりました。

一方、1163年1月にキエフ大公が100万マルクでの和平を申し出ますと、
王国の当座の敵はノルウェー王、シュレスヴィヒ公に絞られてまいりました。

「再び兵を率いて出る!」

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対ドイツ戦役中、運良くレヴァルで雇用されたバスク傭兵2000名は
質の高い歩兵戦力をエストニア公軍に提供した

ここへ来てバルトシュ公は軍勢を招集するようお命じになりました。
リューベックに温存されていたバスク傭兵隊を中核として、
まだしも傷の浅い封臣の兵をかきあつめたのでござります。

宣戦に使える請求権などござりませぬのに、
いったい何をもくろんでおられるのでござりましょうか?

トラヴェ河畔の会戦

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エストニア公妃ドゥース・ド=モンフォール

なんと、戦火のさなかの御結婚なのでござりました。

イングランド、ノーフォーク公家からナコニドへ、二人のド=モンフォール家の娘が嫁ぎました。
そうしてバルトシュ公は御自身および兄君エーリクの御結婚を執り行うことにより、
公としての威信を高められましたのでござります。

今なら、貧しい州ひとつくらいであれば、
領土の請求をおこなっても内外の諸候が目くじら立てることはござりますまい。
エストニア公はいずれかのひとつの国に対して
堂々といくさを吹っかけることがお出来になるということでござります。

「ではノルウェー王とシュレスヴィヒ公、どちらに戦いを挑むか?」

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ノルウェー戦線、1163年3月

ノルウェー戦線では、王軍はボスニア湾から山越えを敢行し
王都トロンヘイムへなだれこんだとのこと。
ノルウェーの制圧は間近であるとの噂が流れておりました。

それに対してシュレスヴィヒはデンマーク王領に接しております上、
バルト海を通じてヴォルガ軍主力を素早く本国へ動かすことができます。
さらに叛逆者ニールスはデンマークの王位請求権を声高に主張しておりました。

「危険な敵に当たるのが先だ」

そうお考えになったバルトシュ公はエスターゴトランドの領土を請求し、
主の1163年5月、シュレスヴィヒ公国に対し宣戦を布告したのでござります。

さすがにヴォルガ領にまで足を伸ばすことはかないませぬが、
攻めとられた王領を解放し、敵軍を壊滅させれば、
叛逆者ニールスは和睦を王に求めるだろうとお考えになったのでござりました。

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バルト戦線、1163-1165年
両軍の部隊はバルト海を頻繁にゆきかい、各地で激戦を繰り広げた

獲った領土をまた獲られ、また獲ったのを獲り返され……。
つらい、激しいいくさとなりました。

どんなにつらかろうと王より先の和睦だけはできませぬ。
王の御為のいくさでござります。
されど、敵ヴォルガ軍にバルト地方全域を蹂躙されるに至り、
公のお心に焦りが見えてまいりました。

「もう新たな兵を募ることはできない。
このままではバルト海を右往左往して数を減らしてゆくばかり。
よく準備された戦場で、決戦をはかるしかない!」

リューベック手前のトラヴェ河屈曲部が戦場に選ばれました。
もう何度目かの本国奪還を果たし、南下してまいったシュレスヴィヒ軍を
各地より集められたエストニア軍2600が待ち受けます。

対する敵は1900名。
一度はエストニア兵の猛烈な弓射に逃げ戻ったシュレスヴィヒ軍でござりますが、
海路かけつけたヴォルガ軍3600の力を得て勢いを盛り返します。
その日、トラヴェ河は血の色に染まりました。

「ここで逃げてはバスクの名折れ!
『バスク傭兵は最後の一兵まで戦う』と後の世に言わせてやれ」

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崩れゆくエストニア軍のなか、最後までバルトシュ公のおんもとを護り続けたのは
都市の民兵でもなく、重代の家臣団でもなく、
バスク人たちでござったと聞き及んでござります。

デンマーク王に捧げるガリヤード

主の1165年12月、いくさは終わりました。
しかしその勝者は、誰もが顔すら知りませなんだ北辺の一領主でござりました。

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偽王グドレイク・イングリング、元トロンデラーグ公
その所領は地図に載せられることすらまれな北の荒れ地であった

いくさの終盤、王領ユランを攻めとったグドレイクは
「ハルザクヌート王からデンマーク王位を譲られた」と吹聴しはじめ、
主君ノルウェー王からの自立をも宣言いたしました。

嘆かわしいのはこの後の出来事でござります。
いくさに疲れた王国の封臣どもはこぞってこの「王」に尻尾をふり、
正式なデンマーク国王としてグドレイクめを推戴してしもうたのでござります!

こうしてノルドの全地に勢威をとどろかせたクヌートリング朝デンマーク王国は
あっけない最後を迎えたのでござりました。

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左:1158年、バルト海を内海化し、ヴォルガ交易路までも支配した最盛期のデンマーク王国
右:1171年のイングリング朝デンマーク王国(水色枠)
  エストニアは独立公国となった(オレンジ色、バルト沿海部)
  旧王ハルザクヌートはユラン半島の一独立伯にまで落ちぶれた(紺色・オレンジ枠)

さらに話をおかしくしておりますのはノルウェー側の事情でござります。
先代のノルウェー王には三人の娘しか御子がござりませんでした。
その御長女グドゥルン・イングリングをめとっておられたのが
シュレスヴィヒ・クヌートリングのそのまた分家、リトアニアのオルフ。

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これでいくさの最中にノルウェー王が身まかられますと
いかなる事になりますものやら、どうぞお暇のある方はお考えください。

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長い話をつづめて申せば、
オルフの長男ブドリス・クヌートリングがノルウェー王冠を継ぐわけでござりました。
すなわち、

「デンマーク王家傍系のさらに傍系がノルウェー王を継承し、
ほどなくしてその臣下であるノルウェー王家傍系がデンマーク王位を簒奪した」

という、いわく言いがたいもつれが生じることになったのでござります。

いずれにせよ、バルトシュは偽王グドレイク・イングリングに仕える気など毛頭ござりませぬ。
まっぴらでござります。
早々に偽王になびきましたベルゲン大司教への請求権を用い、
即座にグドレイクめに宣戦、かくしてエストニアは独立公国となったのでござります。

「シュレスヴィヒ公ではなく、ノルウェー王を先に攻撃するべきだったかもしれない……」
「エストニアの負けいくさが王国の命を縮めたのかもしれない……」

いくさが終わってもバルトシュ公の心は安らかにはなりませぬ。
第一、ユランの独立伯にまで落ちぶれた旧王ハルザクヌートが
いまだ東方の蛮族どもと和平に至っておられないのでござります。

「我が王、我が王、エストニアの庇護をお受けになってください」

バルトシュ公は王に金品と手紙を送り、誘いをお続けになりますが、
はかばかしい返事はござりませなんだ。
若き王にも誇りというものがござりましたのでしょう……。

そうして1171年、ついにクマン族により最後の王領が占領されました。
オールボーの都は焼かれ、王の行方もわかりませぬ。
恐慌にかられたバルトシュ公は密偵頭に命じて王の足跡をたどらせました。

「わが君、王の居どころがわかりました。イタリアです!」

敵に囚われた王は命だけは助けられ、
縁者を頼ってはるかイタリアのカンパーニア公国へと落ちのびなさったのでござりました。

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サレルノの町で静かに暮らす王

「余は疲れた。
この陽光あふれる平和な地でずっと暮らしていたい。
エストニア公の忠義は忘れぬが、もはや余に関わることは望まぬ。
……放っておいてくれと言っているのだ」

カンパーニアからの手紙をお受け取りになったエストニア公バルトシュは
読後しばらく、顔を覆って泣いておいででござりました。

しばらくして公はいくさで受けた怪我を悪くなさり、床につかれました。
そうして御子であられるレヴァル伯オトカルに家督を譲ったのち、
29歳の若さで身まかられました。

バルトシュ公の遺言は

「クヌートリング家にお仕えするのがナコニド家の務めである。
傍系といえど、クヌートリングはクヌートリング。
以後はノルウェー王ブドリスに忠誠を誓い、王をよく助けるように」

というものでござったと聞き及んでおります。



灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。



主の1190年。この年、王ブドリスはイングランドへ行った

ナコニド家(リューベック)


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