Yevstafiiの発狂により、もはや王国の分解は避けられない事態となった。
管理能力も7から2に急落し、執事も能力不足のため元々少ない兵力はさらに減少してしまった。
もしグルジアやトランスオクシアナが動いたらひとたまりもなかったが、
両国とも他国との戦争に明け暮れルーシには見向きもしていなかった。
このことだけが唯一の救いであった。
こうしてしばらくの間不気味な平穏に包まれながら時が過ぎていった。
その平穏も1178年破られ、動乱の第二幕が上がった。反乱をおこしたのはリトアニア地域のサモギディア公。
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対するルーシ軍はアウクシュタイティア防衛にDanilo元帥を派遣し、ガリーチ公らに出陣を命じた。
この命令は次なる動乱の狼煙となった。
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わずか1年ほどの間に立て続けに反乱が勃発、ルーシの4割、リトアニアの大半が反ルーシとなった。
この他にもリヴォニア公がビザンツ帝国支配下に入り、いくつかの伯が独立してしまった。
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1180年頃のルーシ。直轄領以外は反乱側に転じる恐れがあってほとんど動員できない。
サモギディアどころか周辺諸侯に包囲されつつもDaniloはルーシ側に留まったクールラント伯と
防衛に徹し、サモギディア軍を破った。
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(ありし日のDanilo。サモギディア軍撃破によって軍事は20に上昇)
しかし、直後に侵攻してきたガリーチ・トゥーロフ・サモギディア連合軍の猛攻の前に
Daniloが重傷を負い、クールラント伯は戦死。アウクシュタイティアはまたもや陥落した。
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(Daniloはその後傷が悪化し1182年死去)
その頃、もはや完全なる無能力者と化したYevstafiiは…
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このような有様ではもはや首都も防衛できず、ムロム伯やトルジョク伯(Thomas公時代に分家した一族衆)の前に
あえなく敗走、賠償金を支払って和解した直後に雇った傭兵隊にはすぐに背かれて首都を再包囲され、
各地の直轄領は占領され略奪されて荒廃、動員兵力は栄光の時代の1割程度に低下した。
そんな中Yevstafiiは病に倒れ、肺炎を併発させた。しかし、彼の回復を祈る者はいなかった。
皆Yevstafiiに早く、多くの災厄とともに神の御許へ旅立ってほしいとだけ願っていた。
その願いが通じたのか、1184年にYevstafiiはこの世を去った。
子は何人もいたが、全て女子または私生児であったため王位は弟のKonstantinosが継ぐこととなった。
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