ルーシ王 Yevstafii(1154〜1184)の治世

1173年の情勢(再掲)

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(黄:ルーシ、青:トランスオクシアナ、水色:グルジア、赤枠:ルーシ王国領域)

内乱の時代

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即位したYevstafiiの最初の課題は直轄領の配分問題であった。
先王Romanosが残した広大な直轄領は彼の能力では維持不可能であり、即座に手放す必要があったが、
ただの廷臣に豊かな直轄領を与えるのは危険であった。
そのため唯一の肉親であるKonstantinosに数領とロストフ公の称号を授けることとなった。

平穏であったのは領地分与を行っていたわずか数カ月だけであった。
1174年初め、老宰相が死去。彼の後を継いだ新宰相は外交が全く出来ない王を支えるには不十分な人材であった。
外交のまずさは諸侯の忠誠心に大きな打撃を与えることとなった。
凶報は北方よりやってきた。北ドヴィナ伯が挙兵。
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(内乱の脅威によってさらに能力ダウン。封臣への影響もマイナス)

北ドヴィナ勢はわずか数百。Yevstafiiは首都軍団を率いて直ちに出陣した。
しかしその途上、信じられない事態が発生した。
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四方の各公国が相次いで反旗を翻したのである。中でもリャザン・プスコフ両公は危険であった。
豊かなチェルニゴフを首都とし、その臣下には強力なアラニア伯などがいるリャザン公国は
総兵力1万強と非常に強力で、プスコフ公は首都と隣り合う地域の支配者であるとともに
当主はかつてRomanosと二人三脚で王国建設を推進した名将Sviatopolkの息子(軍事18)であった。

対するルーシ軍は統治効率の低下や執事の発狂などで大きく兵力を減少させ、
かつて威容を誇った南部のガリーチ・キエフ・ペレヤスラブリの大領地でさえ各3000程度を集めるばかりであった。
それ以上に厳しいのは指揮官の欠乏であった。元帥格のDanilo(軍事19)以外は10前後のものがわずかにいるだけという寂しさ。
何より王が軍事0のため、戦争には極めて脆弱となっていたのであった。
各戦線は次のとおりである。

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・東部戦線(元帥Danilo指揮)
ヤロスラブリの戦い
ルーシ軍9000 VS ヤロスラブリ軍6000…ルーシ軍勝利
この戦いによってヤロスラブリ軍壊滅。包囲戦の後、ヤロスラブリ公降伏。
全称号を差し出させることで講和した。
が、一方で東部ルーシ軍最大勢力のウラジーミル伯(Leo公の時代に分家した一族衆、初代伯はRomanosの兄)が
ルーシからの離反を宣言、独立伯となってしまった。伯とはいえ、6000近い兵力のため
強硬手段に打って出ることはできなかった。

・西部戦線
アウクシュタイティアの戦い
ルーシ軍2500 VS ポドラシア軍5000…ポドラシア軍勝利
西部唯一の直轄地はほどなく陥落

・南部戦線
チェルニゴフの戦い?
ルーシ軍12000 VS リャザン軍5000…ルーシ軍勝利
占領した直後アラニアからの増援軍到着。
チェルニゴフの戦い?
ルーシ軍8500 VS リャザン軍7000…ルーシ軍勝利
勝利したものの、ルーシ軍も残り兵力3000余りとなり一時解散。

・中央戦線(ルーシ王Yevstafii指揮)
プスコフの戦い(北ドヴィナ討伐軍をプスコフ攻めに投入)
ルーシ軍6500 VS プスコフ軍5500…プスコフ軍勝利
ノヴゴロドの戦い
ルーシ軍4000 VS プスコフ軍4500…プスコフ軍勝利

ちょうど同時期、グルジア王がルーシ領の称号を請求したことが発覚した。
飛ぶ鳥落とす勢いのグルジアに介入されれば極めて危険な事態となる…
Yevstafiiはプスコフ・リャザン・ポドラシアから次々舞い込む無条件講和及び賠償請求を
全て受け入れ、北ドヴィナとも講和し、国力の回復に専心することを目指した。

…が、Yevstafiiの様子がおかしくなったのはこのときであった。
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もはやルーシ分裂は目の前に迫っていた。


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