マゾフシェ公ラスロ(画像)は初のハンガリー系君主である。
先代プルツェミスラフ公は戦争で多くの金貨を消費していたが、ラスロはダンツィヒ伯時代に
極めて有能な家令の采配もあって多額の財を築き上げていた。
王家はプルツェミスラフ公治世末期(1140年頃)に1歳で即位したヤクブ王が健在。
分家筋ではボレスラフ王(兄王)の次子が祖のアルカ・ピアスト家が残存(のちポーランド王)。
ラスロには即位時に男子2人、女子1人がすでに誕生。
男兄弟は次兄ボルコ(教区司祭、のちにズドヴィア司教)を筆頭に計3人が生存。
分家筋としてはメクレンブルク・ピアスト家(当主はラスロの甥)
ホルシュタイン・ピアスト家はヤセク(先代の弟)に嗣子なく断絶。
直轄地7州、称号請求権多数(ベーメン中心部への請求権など)
ラスロが公位にのぼってまず行わなくてはならなかったのは、先代が残したボルドヴィン族との戦争の始末であった。
戦いはポーランド側が優勢であったが、バルト海沿岸の領土を押えるだけでは不足で、
ルーシを横切ってブルガール地方にある領土まで制圧しなければ降伏する兆しが見えなかった。
だが、ポーランド王の手持ちは少なく、マゾフシェ公も資金力には限界があったため膠着状態に陥っていた。
しかしラスロには先代と違って資金が豊富にあった。
即座に兵を動員して遠征に出発したのだが、間もなく相手方から和平提案がなされた。
ラスロは無理に戦争を続行し遠隔地に領土を持っても維持困難と判断し、この和平案に同意し、兵を解散した。
ヤクブ王はその後しきりに兵の提供を依頼してきたが、全てを拒否、その後両者は敵対するようになった。
大元の原因は文化の違いであった。王家はポーランド系、公爵家がハンガリー系であったため、
ラスロは王家に嫌悪感を抱いており、それが高じて公然と敵対的な態度を取るまでになったのであった。
さらに同時期メクレンブルク・ピアスト家がマゾフシェ公支配下から離脱し、ポーランド王家の臣下となったことで
もはや両者の戦闘は避けられない事態となっていた。
だが、ヤクブ王がローマ帝国とフランス王国を相手にした大戦乱に参戦したため、
内戦間際の状態でありながら国内は10年もの間平和が保たれたのであった。
ヤクブ王は嗣子がいないまま1160年頃戦死し、アルカ・ピアスト家のミエスコが即位した。
ミエスコ王の時代に入るとフランスとは講和が成立し、対ローマ戦でも「敵の敵」であるハンガリーが優位に戦いを進めていたため、、
新王に対してもラスロは形だけの忠誠を誓うのみで兵を供出することはほとんどなかった。
この間、多額の収益を使って大規模な建設活動が公領各地で行われたが、それでも
金貨は貯まり続け、兵力は増大し、軍指揮官要員も十分。戦争の準備はすべて整った。
あとはローマとポーランドの講和を待つばかりであった。
本日(2/1)中に…
ポーランド、大国への道