Ruben公は いのりを ささげた。 なんと 公国は よみがえった!
晴れてアゼルバイジャン公となったRubenであるが
モスル(Mosul)国のやビザンツ帝国からの圧力は日に日に高まる一方で気の休まる暇がなかった。
軍師Mstislav曰く
「エデッサ一帯を手中にすれば、ビザンツやモスルに勝てないまでも負けない戦いができまずぞ。」
後にいうアルメニア三分の計である。
この言を受け、Ruben公は瞬く間にエデッサ一帯を確保。
さらにモスル国から独立した旧メソポタミア公領へも兵を進める。
エデッサ一帯は、カフカスで育ったRuben公にとっては想像を絶する大都会であった。
道は整備が整い、図書館や学校まであるばかりか、何より街を行きかう人々の数が違った。
これらの富を手に入れたアゼルバイジャン公国は、軍備の増強を図り、
ビザンツ帝国から半ば独立状態となっているキリキアへと軍を向ける。
キリキア地方は、ビザンツとセルジュークの抗争を逃れたアルメニア人が多く住んでいたからである。
キリキア地方は、バグラティド朝においてはアルメニア王国支配下ではなかったが、
古代アルメニアの最盛期には支配域であったことから、
アルメニア王国再興を目指すRuben公にとっては悲願の地であった。
Ruben公の軍が近付いていると聞くと、アルメニア系住人はビザンツ貴族を追い出したため
ほとんど無血入城に近い形で、キリキア地方はRuben公の支配下に置かれることとなった。
このキリキア地方制圧をもってアルメニア王国の成立と見る学者は多い。
つづく
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