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12/6/6/9 8歳
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いまや世界最大の王国を受け継いだLudolf1世の戴冠式は王都Mainzで華々しく催された
しかし儀式などの疲れからかLudolf1世は即位後すぐに寝込んでしまう。
国中で新しい王の回復が一心に願われたが、病気は肺炎へとすすみ、
即位から3年後、1306年、わずか11歳でLudolf1世病没する。
14/1/5/7 19歳
Ludolf1世の死で次の王に選ばれたのは
Ludolf1世の兄で、Wilhelm1世の三男Werner
Wilhelm 1256- ├─────┬────┬─────┬────┬───┐ | | | | | | Adalbert Bernhard Werner Burchard Albrecht Ludolf 1278- 1280-1304 1286- 1290- 1290- 1295-1306
11歳で死んだLudolf1世の能力、教育なしで12/6/6/9
新王Werner、軍隊教育で14/1/5/7
明らかにダメな方に流れました^o^
まさかこんなに早くお亡くなりになるとは思わず後継者なんて考えてなかった
唯一いいのは成人男性(19歳)で軍隊教育だからGranada遠征に使えるってことぐらい
使者から継承のこと聞いたWernerは遠くの領地から王都Mainzに向かった
宮殿に現れたWernerは垢抜けない凡人に見えた。
彼は戦士として才があったが、それでもWilhelm1世を知る世代からしてははるかに見劣りするものであった
彼の熱心で精力的な性格も垢抜けない姿をより強調して見せてしまっていた。
王国はGranadaとの戦争によって大きく変質していた。
Wilhelm1世は新たに得た領土を一族に分配し、その地の有力者は宮殿に集めることを欲した。
かつてはほぼすべての重臣が一族の者であった宮廷も
今では圧倒的に他姓の者が多く、文化も多彩な国際情緒あふれるものとなっていた。
ーWernerだって?聞いたことあるかそんな名前 ー聞くところによると遠くで伯爵をやっていたらしいが、ずっとBernhard様が王位を継ぐものだと見てたし その後はLudolf様。まさかWerner様にくるとはなぁ ー君だってみただろう?どう見たってできが悪い唐変木さ。 なんだって彼が選ばれたんだ? 宮廷のごろつきどもが陰謀を企てたって話もあるぐらいだ ーへえどんな話だい? ーWilhelm様はLudolf様の教育方針や、成人までの重臣たちの権限、あれやこれやかなり厳しく決めてた。 まさかWilhelm様にたてた誓いを破るわけにはいかないし 宮廷の連中も勝手なまねはできないだろ? ところが”なにかが起こって”Ludolf様がお亡くなりになってしまえば Wilhelm様にたてた誓いをやぶらずに好き勝手できるようになるわけさ ーなるほど。ありえないことではないなぁ ーまったくやりきれないね。 いま王国を牛耳ってるのはどこから来たかもわからない余所者 誇り高きRheinfelden家は蚊帳の外だ
陰謀が本当にあったかはわからない
しかし、徐々に一族の結束をゆるめていった王国は
Wernerの即位後から一族の公爵や伯爵の反乱が急速に増えることとなる
Wernerは王国の求心力を保つため(重臣らの進めにしたがって)
国庫から10000を封臣らに与え忠誠を誓わせた
Wilhelmの死、Ludolfの死、その後の反乱とGranada戦争へ配す余力をもっていなかったため
戦線はあまり進まず。新たにアイルランドを征服したぐらいだった。
反乱も一段落つくと、ついに戦争の舞台はGranadaの本拠地、イベリア半島となる。
軍はWerner新王率いる1万を含めて3万を主力とし、非常時軍を多数用意することになった
親征は重臣らが望んだことでもあったし、自身が望んだことでもあった。
いまだWernerの王としての素質を疑問に思う者も多くいた。
Wilhelm1世の後継者として彼の建てた偉業をしのぎたいという野心もあった。
また、宮廷というものはWernerには合わなかった。
成人してからすぐに遠地に送られた彼には
きらびやかながらも儀礼と形式を重視した世界になじめかなかったのだ
1308年、出征式も終わるとWerner王は意気揚々とイベリアへ向かう
イベリアはどこも優れた技術と文化ももっていた
Mainzよりも大きな城もそこらに見えた
Granadaの力が回復する前に城を落とさなければ何倍もの労力を費やすことになる
また、イベリアはBurgundyの王領から遠いのも注意しなければならない
包囲に兵が足りなくても、時間がかかるからだ
今回は費用もばかにならないが船で輸送を多用することになった。
前に書いたようにWernerは軍事が高めだが決して安心できるほどではないので
元帥の部隊で先払いをしてから占領だけ任せるようにする
イベリアには各地の残党が戻ってきており、1万前後の決して油断ができない量の兵がいた。
軍隊を慎重に運用し、兵数が負けないように戦う。
大きな城を包囲するのにはやはり大量の兵が必要になったので付近の封臣の兵を多めに送ることになった。
戦闘は激しかったものの順調に進み
1313年にはイベリア北部をほとんど制圧する。
1316年、唖然とする事態が起こる。
包囲していた部隊がGranada軍の不意打ちをうけわずか一日で1万以上の兵が壊滅。(*部隊の壊滅イベントが発生)
援軍が送られてくるまで遠征を中断しなければならなかった。
この大失態はけっしてWerner王に責任があるものではなかったが
順調にいっていた遠征におこった悲劇にWerner王は度を失った。
遠くから援軍を待って、遠征は再開されることになったが
Werner王は焦った。
1318年、包囲中矢をうけ、Werner王は重傷を負ってしまう
重傷から病を負い、Werner王は陣幕から出ることもできなかったが
それでも遠征の完遂を願って、自身に配慮して遠征が遅れることないように将軍らを叱咤した。
1319年8月23日、ついにGranadaの王都Cordobaが陥落する。
イベリアの豊かさはドイツの比ではなかったが
Cordobaの富はそのなかでも群を抜いていた。
しかしWerner王は陥落の知らせを聞いても目は濁り、うわごとをつぶやくのみだった。
Werner王は病膏肓に入り、肺炎まで併発していた。
Cordobaの旧王宮に部屋に閉じこめられ、当時では最先端とされた医師たちの看護を受けるも
彼らですら処置なしといった具合だった。
1319年12月29日、Werner王、自身がその陥落を願ったCordobaで病没する。33歳
Granadaとの戦いはまだ終わっていない
王らibn Ziriのものはシチリアに逃げていた。