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ヴァロア公ギィ
ギィは先代エリィの長子ラウルの息子だが、ラウルがエリィより先に没したために彼が公位を相続した。
ギィは祖父エリィと折り合いが悪く、彼との間に問題を起こして継承権を剥奪されかけたこともあったため、諸侯からの評判は悪かった。
国内の不満分子を鎮圧したギィは、フランス全土の掌握に向けて動き出した。
先代エリィも戦争の機会を窺ってはいたが高齢であったため、戦争中に自らが死ぬようなことがあれば国内が混乱すると考え、戦争は行わなかった。
しかし、ナヴァラの王権が弱まり、今まで足枷となっていたイタリアで諸侯の離反が進むと、ギィは対ナヴァラ戦争の準備を整え始めた。
ギィはまずイタリア王テオドルと同盟を結び、後顧の憂いを断つことに成功する。
さらにナヴァラ王の封臣であった下ロレーヌ公が国王に対して反旗を翻し、ナヴァラ王軍が領土を離れると、
下ロレーヌ公救援を名目にナヴァラ王に宣戦を布告したのである。
ギィは最後通牒としてディジョンとシャロレーを相続権を持つ一族のアンドレ・ド・ヴェルマンドワに与えることを要求したが、
ナヴァラ王はこれを拒否、再びナヴァラ戦争の火蓋が切られた。
ギィの作戦
フランドル方面軍はヘルダーラントに上陸させ、そのままドイツを横切ってオーストリアのナヴァラ領を占領する パリの公爵直属軍は下ロレーヌ公の反乱鎮圧のため同地方に集結しているナヴァラ軍主力を攻撃する オルレアン軍は王都シャロレーを含むブルゴーニュを平定し、パリ軍と合流してロレーヌを掌握する
ギィは重傷を負いながらも作戦を成功させ、ディジョンとシャロレーをアンドレに与えるという条件でナヴァラ王と和平を締結した。
フランスからナヴァラ王の勢力を駆逐したことでヴァロア公のフランスにおける勢力は揺るぎがたいものとなり、ついにフランス王国復活への条件は整った。
パリに凱旋したギィはフランス王としての戴冠式を行い、同時にブルゴーニュ公位も宣言した。時に西暦1204年11月14日のことであった。
フランス王となったギィは各地方に領地を持つ一族に公爵の位を分け与えた。
すなわちディジョン伯アンドレをブルゴーニュ公に、アミアン伯レオンをヴァロア公に、ユー伯アモリィをノルマンディー公に任じたのである。
ブルゴーニュ公アンドレ ナヴァラ戦争の結果ディジョン、シャロレーを獲得 ヴァロア公ラウルの孫だが庶流であるため継承権を持たない 母はナヴァラ王の姪
ギィの叔父で元アミアン伯
トマスの私生児ギヨームの子孫で元ユー伯
1.威信+50、50%の確率で安定度-1 ニア2.威信+100、安定度-1、50%の確率で「傲慢」を得る 3.「謙虚」を得る
ギィは国王領の一部を騎士たちに何度も分け与えることで威信の回復を図った。
これによって騎士の発言力が増大し、彼らが国政に口出しするようになったことで国家運営が不安定となった。
この政策と並行してギィは皇帝の位を手に入れるため、ロートリンゲン王位の獲得を目指した。
彼の参戦によってナヴァラ王国への併合を免れた下ロレーヌ公に忠誠を誓わせて傘下に加え、ロートリンゲンに一定の影響力を得た。
ギィがさらに下ロレーヌ公の戦争に肩入れしようとすると、教皇インノケンティウス3世が勅書を発布して停戦を命じた。
ニア1.献金イベント発生 2.信仰心下落、教皇が怒るイベント発生
威信が回復していない状況で教皇と対立することを恐れたギィはこの勅書を遵守して戦争を中止した。
これによって教皇の国王に対する優越がキリスト教世界に再確認された。
1207年9月、ギィはナヴァラ戦争で負った傷が悪化して死亡した。
ギィは子を残さなかったため、弟ブーシャールがフランス王に即位した。