ルイ6世の治世
フランス王ルイ6世
ルイが即位して間もないころには諸侯の対英戦争への不満が残っており、遠国諸侯の一部が独立を宣言したが、ルイはこれを放置した。
フランスの諸侯にも離反の動きがあり、国内の制度も整っていなかったため、外征など到底できるものではなかったからだ。
一方かつての同盟国イタリアではこの動きがより顕著に現れており、国内が内乱に陥っていた。
そこでルイは戦争ではなく外交による領土拡大を目指し、内乱中のイタリアから独立したロートリンゲン諸侯を取り込むことでその地に勢力を確立しようとした。
最初にルイが目をつけたのがザクセン公である。
ロートリンゲンから北ドイツにかけて大きな勢力を持つこの公国を服従させるために、ルイは北のデンマーク王と同盟を結んでザクセン公に圧力をかけた。
ルイに忠誠を迫られたザクセン公は臣従を余儀なくされ、ロートリンゲン29州のうち16州がフランスの勢力下に収まることになった。
しかしこのデンマーク王との同盟は思わぬ事態を招く。
かねてからイタリアの内乱に介入していたデンマーク軍はフランスに側面を衝かれることを警戒して北ドイツで足踏みをしていたが、
フランスとの同盟により側面の憂いが断たれたことで堰を切ったように南下を開始、
イタリアの首都ジェノヴァを陥落させ、国王テオドルに迫ってイタリア王位を奪うに至ったのである。
これによってデンマークはイタリア王国の大部分を手に入れ、テオドルはブルグント王としてイベリアに脱出した。
紫色がブルグント デンマークは多くの諸侯を支配下に収めたが国王は突然の領土拡大に対応できず、統治は滞り、諸侯の大半は離反していった
1229年、即位から16年間徹底して外国との戦争を回避してきたルイがナヴァラ王国と開戦した。
原因はナヴァラ王国がルイの大叔父にあたるヴァロア公レオンの領土を奪取したことにあった。
このころのナヴァラ王国はすでに相当に弱体化しており、もはやフランスの敵ではなかった。
戦争は早々に終結し、ナヴァラ王はヴァロア公から奪った領土とナヴァラ王位をルイに引き渡すこととなった。
結果、ナヴァラ王位に付随してその臣下の諸侯もルイの支配下に置かれ、ロートリンゲンにおけるルイの勢力は揺ぎないものとなった。
そしてこの年の11月23日、ルイはナヴァラ王位獲得と同時にロートリンゲン王位の創設を宣言したのであった。
この行動はギィのフランス王即位とブーシャールの対英戦争以来ようやくフランスへの警戒心を緩めかけた諸外国を刺激し、
フランスと周辺諸国との関係は再び緊張したものとなった。
戦後のルイは内政に力を入れ、フランスの勢力基盤を固めることに専念した。
ヴェルマンドワの成立を正当なものとして世に知らしめるためにクローヴィス大王時代からのフランスの歴史を記した年代記を編纂させたのもこの時期である。
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この年代記を編纂する段階でイタリア王、オクシタニア王の後継者を定める文書が「発見」され、ヴェルマンドワ家がこれらの称号の相続権を有することが証明された
1241年、ルイはパリの宮殿で病死、28年間の治世を終えた。
その治世の間に王国の体制は磐石のものとなり、アンリ2世として即位した王太子アンリに残されたのは、
カール大帝時代のフランク王国の半分を占める広大な領土と国庫に溢れんばかりの資金、
そしてイタリア、オクシタニア王位の要求権であった。