はい、ということでAAR「わがエルシドの歌」。
これでおしまいです。どうだったでしょうか。
はじめは、「エルシドの子孫である軍人たちが百年二百年かけてレコンキスタを遂行する」、そんなAARを目指していました。
しかしあれよあれよという間にアルフォンソ六世がレコンキスタを達成してしまい、慌てて締めの作業にはいらなければならなくなりました。
この世界のエルシドはですね、たぶんwikipediaには次のように書かれるのではないでしょうか。
ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、通称エル・シド(El Cid)(1045年? - 1089年6月)は、11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族。叙事詩『わがシッドの歌』の主人公としても知られる。
ブルゴスの北にある小さな町ビバールで生まれる。その正確な誕生日は未だに不明であるが、1043-1045年の間ではないかと言われている。
シドの父はディエゴ・ライネスと呼ばれていたことが知られ、幾つかの戦いに参加した軍人である事が知られている。若き日のシドは、そういった縁もあって、サンチョ2世付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。1063年の春頃にグラウスの戦いが起こり、シドはサンチョ2世と共にこの戦いに参加している。
1065年にフェルナンド一世が死去。その領地は息子達に分割相続された。
サンチョ二世はカスティーリャ王国を受け継いだが、長男として全ての領地を受け継ぐべく戦争を開始した。弟達を打ち破り領土の再統一を図り、シドもサンチョ二世の下で活躍する。しかし、サンチョ二世は1068年にレオン城の攻城中に戦死してしまう。
サンチョ二世は攻城中に捕虜となり、身代金の支払いを拒否したために傭兵たちに殺されたといわれている。
サンチョ二世の殺害については、弟アルフォンソ六世とその姉ウラカが傭兵たちに指示を出したとも言われるが定かではない。アルフォンソ六世が王位を継ぐと、シドはカスティーリャから追放されてしまった。
アルフォンソによる追放の後も、彼を慕う多くの兵士達が集った。シドは当時まだ色がついていなかったモリナの征服に乗り出し、寡兵をもって二倍以上の敵を打ち破って、1069年にモリナをイスラム教徒から奪回する。
モリナ伯となったあとはアルフォンソに帰順を誓う。その後もシドはカラタウド太守領を攻めて太守を戦死させたり、ポルト公を攻撃してこれを臣従させるなどの活躍をしている。1083年にはサラゴーサとレリダのイスラム教徒をエブロ河の岸辺まで追いやった。
1088年に行われた馬上試合大会で負傷し、1089年、そのまま亡くなった。
生きている時代にすでにシドを歌う叙事詩が作られ始め、シドは城でその歌を満足げに聴いていたという文献資料もある。
叙事詩のひとつによれば、死期を悟ったシドは自ら食を絶ち、死体を保存できるように準備をし、数十年以上、生きた当時の姿のまま台座に座っていたという。そしてその台座上の姿のまま、愛馬バビエカに乗せられて巡行したと述べられている。それでも、ついにミイラの鼻がもげてしまったことをきっかけに、パピエカの墓のすぐそばに埋葬されたという。
シドの妃はアルフォンソの娘であり、女子を一人もうけている。彼女はのちイスパニア皇帝ガルシア一世に嫁いだ。
エル・シド(1045?-1089)。
はい、こんな具合ですね。
どうですかね。妄想乙ですか。
でもそういった妄想をするのがparadoxゲームでは楽しいんじゃないですか。ねえ。
このAARを書くためにamazonで『エル・シードの歌』(岩波文庫)を買っちゃいましたよ。なかなか面白かったです。
AARでたまに添付している絵画の画像はほとんどがgoogle検索で拾ったものです。(ダリが書いた落書きみたいなエルシド像が一番好きです。)
もし、中世の絵画をあつめているいいサイトがあれば、誰か教えてください。よろしくお願いします。