フランケン朝の中興

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1078年は、神聖ローマ帝国にとっての分水嶺であったと後の歴史家は評している。

時の王、ハインリヒ4世はドイツ、イタリア、ブングバルトそしてボヘミアの玉座にあったが、
その権力基盤はいまだ盤石とは言えず、即位以来、宿敵であるトスカーナ、Swabia公との死闘を繰り返していた。

そしてハインリッヒの王権拡大の動きが頂点に達した1077年にいたって、
彼の露骨なまでの勢力拡大を快く思っていなかった諸侯達(特に高地ドイツ、イタリア系諸侯)は
叙任権をめぐってドイツ王と対立していたローマ教皇グレゴリウス7世と結託し、ハインリッヒを破門へと追いやった。

まさに1077年から1078年においては、ハインリッヒの生涯でも最も劇的な一年であった。
彼は破門されたことをいち早く知ると、バイエルン公と共同でRheinfelden家を攻め落とし
Swabia公の地位から追いやることに成功した。
さらに彼はその余勢をかり、教皇権の拡大を望んでいなかったドイツ王派の諸侯を率い、
トスカーナ公の勢力をロンバルディアから駆逐した。

ここにいたって教皇は、まだ戦火の残るカノッサ城へと釈明のため向かうほかなかった。
教皇が、破門されたはずのドイツ王の待つ城へと出向き膝をついたこの一件は、
後世「カノッサの屈辱」と呼ばれ、皇帝権の拡大を象徴する出来事として周知されている通りである。

さてこのカノッサの一件以来、ドイツ勢力地図は瞬く間に様変わりした。
皇帝(ここから先はこう呼ぶ方が適当であろう)は、破門をとかれ、皇帝の称号を教皇より贈られはしたものの、
ドイツ諸侯の中には強大化する一方のハインリッヒを快く思わないものが日増しに増えていった。

そして1082年の秋、ハインリッヒは突然死を迎えた。
この死因は、今なお明らかにされていないが、
ドイツ王に鬱憤を抱いていたザクセン公の手の者のしわざという噂が当時から流布していたという。

ハインリッヒ4世は、私生活では女色など多くの欠点を抱えた王であったが、
持前の忍耐強さと優れた戦術眼によってフランケン朝の皇帝権拡大に成功した。
特に、当時はまだ小さな港町であったヴェネチア、ジェノバの可能性を見出し、
早々とこれをフランケン朝の直轄地とした意義は大きい。
他のドイツ諸侯にはドイツの地を惜しみなく与える一方で、
自らは実を取った彼の判断の正しさは、この後のフランケン朝の発展が示している。

次代 Gerard
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