コンスタンティノス10世ドゥーカス 1066-1079 威信2759 信仰心296

最初におことわり

作者のPCがCKの必要スペックぎりぎりのためか、CKが非常に不安定で、クラッシュ・フリーズが多発し、特に帝国領土が肥大してからはそれがひどいものとなっております(1年間(CK時間)に数回。オートセーブが1年毎なのに...)。
そのためこのプレイレポは、内容が数時間で変更されている場合や、時間やイベントがあいまいなところがあります。
というかもう変更があります ( ´∀`)σ)∀`)スイマセン
ご了承ください。


東ローマ帝国は、東西ローマ帝国分裂の4世紀から、オスマン帝国による制圧の15世紀までの約1000年という大変長期に渡って続いた国家である。「文明の十字路」と呼ばれる紛争が絶えないこの地でこれほど長期に渡って続いたのは、優秀な民族がいたこと、首都コンスタンティノポリスの大城壁、洗練された官僚制度等があげられている。
コンスタンティノス10世ドゥーカスが王位を受け継いだときはかつての地中化の覇者の面影は全くと言っていい程なく、中東やイベリア半島はムスリムに、南イタリアはノルマン人に占領されてしまっていた。
ドゥーカスはローマ帝国の領土を回復することに残りの生涯を捧げるつもりであった。

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↑紫色が開始直後の東ローマ帝国の領土。下の方に見える青色はエルサレムをもつ、ムスリム・ファティーマ朝


黒海を我が庭に

1067年1月、まずドゥーカスはそれまでの顧問を更迭し、新たに顧問を選びなおした。
皇帝及び顧問の能力は以下を参照

*皇帝(Emperor) コンスタンティノス10世ドゥーカス (60) 8/7/6/6 無原則/大目に見る/内反足/名戦術家 
*軍事顧問 ニケフォロス(65) 軍事11/名戦術家 
*財政顧問 パトゥリキロス(28) 財政10/雄弁家、三つ口、寛大
*外交顧問 バーダス(28) 外交10/天資の交渉人、執念深い、慈悲深い
*諜報顧問 ロアネス(28) 諜報8/利己的、名戦術家

ドゥーカスはこれほど優秀な官僚がいることに改めて明るい帝国の未来を信じた。
ただ、ニケフォロスが高齢なことと、パトゥリキロスが障害を持っていること、そして何よりも自身の高齢が気がかりであった。
次に法律を封建契約に制定した。さらに貴族への税金を減額し、教会への寄付を増額した。
ドゥーカスは民衆への税金を減額し、忠誠心の増加を望んだが、現行の法律ではこれ以上の減額はできないとパトゥリキロスに忠告され、仕方なくあきらめた。
研究機関へは弓・農業・学問の研究を優先的にするようにと命令した。
ちなみに法律の変化で一時的と思われる属国の忠誠心の低下が見られた。

次に収入も乏しく、その上ムスリムとの最前線にあるビラを臣下のジョージオスに与え、国民の信仰心を増加させた。

1067年3月、軍事顧問ニケフォロスが老衰により死去。代わりに諜報顧問のロアネス(軍事10)が軍事顧問となり、ポスト・ロアネスにはシェオドゥラ(18/諜報8/宮廷教育)がついた。

1067年8月、シェオドゥラが教育を終え、華麗なる策謀家となった(諜報9)。若くして皇帝直属の顧問となったシェオドゥラはその地位を完全に固めたといえよう。

1072年1月、ある程度内政基盤を固めたドゥーカスは、ついに異教への侵攻を決意する。
ドゥーカスには、「もうすぐ天に召されるのではないか」という焦りもあった。
東ローマ帝国は異教国ツァーヌへ宣戦布告。ツァーヌの宗主国フェチェネグスに宣戦布告される。クリミア半島直轄領の2部隊はベルゴルドに向かい、国王軍はツァーヌに向かった。

1072年3月、第3隊が異教国ビァールドに宣戦布告

1072年4月、第4隊がセバリンに侵攻。

1072年6月、ベルゴルド占領。部隊は異教国オルビアに侵攻。

1072年7月、ツァーヌ占領。国王軍はフェチェネグス侵攻。

1072年10月、ビャールドを途中から割り込んできた同盟国ポーランド王国に取られる。

1072年12月、セバリンを占領。

1073年1月、オレシェイに侵攻。戦力が少なくなってきたのでここで帝国の属国全てに動員令を発令。クリミア半島に集結させる。

1073年4月、オレシェイ制圧

1073年5月、異教が住みつく黒海北部沿岸へ侵攻

1073年6月、属国セルビア公国によってチアゴビスチェが陥落。
これで、ドナウ川北部・ルーマニア地方を治めていた異教国群のほとんどが帝国領となった。

1074年4月、黒海南東沿岸、トラプソン公爵が独立を宣言。ドゥーカスは激怒し、征伐に向かった。

1074年11月、トラプソン公爵に賠償金を払わせることで和平に合意。これは、公爵とその臣下の治める3州の独立を許した形になってしまった。

1074年12月、属国の忠誠度が異常に低下し、反乱の可能性があるため、各属国に2度目の支援金を送った。

1075年1月、帝国は黒海の沿岸をほぼ制圧し、皇帝直轄領はなんと17州もあった。月の収入も100を越えた。
そこでドゥーカスは首都コンスタンティノポリスに大宮殿を建てることを命じた。建築には多大なる資金が必要であったが、東ローマ帝国にとっては資金練りは安易にできた。
大宮殿の建設で、正統なローマ帝国の後継者であることも世界に広める狙いもあった。
顧問との会議の際に、「戦力の補強が優先だから士官学校を建設すべき」と言うロアネス軍事顧問派と少々揉めたが、そこは、ここ数年で威厳を高めた皇帝の一喝で宮殿建設に決まった。

1075年5月、皇帝との対立のストレスからか軍事顧問ロアネスが病気を患った。ドゥーカスは戦友の病気を大変心配し、内反足の不自由な足で毎日見舞いに行ったという。
この頃、ハンガリーVS独仏英の戦争が始まった。周辺国は何故ハンガリーが戦争を仕掛けたのか不思議ではならなかった。

&attachref(拡大した帝国領土.jpg);&attachref(拡大した直轄領.jpg); ↑(左)1975年5月の領土。この他、クレタ島に属国がある。灰色はハンガリー王国。
↑(右)上と同じ時期の領土(外交画面Ver)。青色は同盟国ポーランド。オレンジは帝国から独立したトラプソン公国

ひとときの休みを

1075年9月、秋が深まる平和の一時を過ごしていたドゥーカスに、凶報が入った。
イタリア半島・ナポリ伯爵からの宣戦布告の大使であった。
ドゥーカスはイタリアの領土を取り返す良いチャンスだと感じた。
所詮、相手はナポリ国の1カ国。首都周辺の直轄領とクリミア半島から軍を呼び出し、商人に資金を借り地中海を渡った。

1075年11月、クリミア半島方面からの軍をコンスタンティノポリスで待つドゥーカス。しかし彼は他にも待っている者があった。
年の初めに建築を開始した大宮殿である。
それが4日、ついに完成した。宮殿内部には、有力貴族から無名の貴族までの部屋が用意されており、貴族は皇帝への永遠の忠誠を誓った。
丁度待っていた軍も到着し、ワインを飲みに行くような感覚でナポリに向けて出航した。

1075年9月、ナポリ城が陥落。即日ナポリを皇帝直轄領とした。これで直轄領は18州となった。皇帝と顧問が有能なおかげで18州の直轄も容易にできた(Efficiencyは100%)。

1077年2月11日、ヨードキア皇帝婦人が45年の人生に幕を閉じた。悲しみにふけるドゥーカスだったが、なにせ自分の身分は東ローマ帝国皇帝。次の婦人をすぐ探さねばならなかった。

1077年2月16日、ドゥーカスはフランス王家のメシルド(49)と結婚した。結婚はコンスタンティノポリスの聖堂で盛大に行われた。
この結婚の裏には、結婚に伴う徴収金という名目でフランス王家を弱体化させ、さらには皇帝直轄領全土での公共工事の費用を賄う狙いもあった。
メシルドはカトリック界に顔が広く(外交10)、翌日より外交顧問となった。

1077年3月、次男、アンドロニコス・ドゥーカスをドイツ王家ビンヒルデ(40)と結婚させた。
年の差は20才であり、明らかな政略結婚と言われている。
ビンヒルデは経済学で長けており(財政12)、財政顧問として皇帝に従うことになった。

1077年4月、アンドロニコスが結婚し、身を固めたのを期に諜報顧問となり、政(まつりごと=政治)を行うことになった。
これで顧問は全員、ドゥーカス王家の者のみとなり、一部で批判が見られたが、どれも優秀な者ばかりで皇帝の目は正しく、文句は到底言えるものではなかった。

*皇帝(Emperor) コンスタンティノス10世ドゥーカス (71) 8/7/6/6 無原則/大目に見る/内反足/名戦術家 
*軍事顧問 ロアネス・ドゥーカス(皇帝の弟)(65) 軍事9/華麗な策略家 
*財政顧問 ビンヒルデ(皇帝の次男の妻)(40) 財政12/利己的、公正、雄弁家
*外交顧問 メシルド(皇帝夫人)(49) 外交10/執念深い、詐欺、天資の交渉人
*諜報顧問 アンドロニコス・ドゥーカス(皇帝の次男)(20) 諜報11/幻影術士
※ちなみに皇帝の長男は帝国の属国、アドリアノポリス伯国の君主

1077年6月、万を期してドゥーカスは、セルビア王国とブルガリア王国の称号が自分の者だと発表した。
これにより、ドゥーカスは東ローマ帝国及びセルビア王国及びブルガリア王国の同時君主となり、威厳は大幅に高まった。

1077年8月、大宮殿の広い庭で一人考え込む者がいた。
東ローマ帝国の相続法は、昔から「競争相続法」である。これは皇帝の子、もしくは属国の君主、もしくは廷臣のなかで、もっとも有能な者が皇帝になれるという珍しいものである。現在の皇帝は、御年(おんとし)71才。そろそろ天に召されてもいい年頃であり、帝国中でだれが皇位につくかが話題となっていた。
現在の最有力候補はアルメニア公国のローペン公爵(37)。軍事及び外交に長けており(10/9/5/5)、領地も直轄領3州、属国が6カ国の帝国の中でも指折りの属国である。「有能」というのには「領地の広さ」も含まれているため能力・領地両方を兼ね備えているローペン公爵が最有力皇帝候補なのだ。
これをおもしろく思っていないのは皇帝ドゥーカスである。当然、後継ぎは自分の子供がいいに決まっている。しかし現行の法律を変えることは、属国の忠誠心の低下を招く。ではいかにして皇位を世襲にできるか。
「子の中で最も有能な者に領地を分け与えればよい。」ドゥーカスはそんなことは知っていた。しかしタイミングは重要だ。自分が死ぬまではそこは属国になってしまい収入が落ちてしまうからだ。自分が死ぬ寸前で最も有能な三男のコンスタンティノス11世に領地を与えることを腹に決めていた。

1077年10月、突如ドゥーカスは、黒海北部沿岸及びクリミア半島北部及びアゾフ海沿岸の皇帝直轄領8州とモルドバ公爵・クリミア公爵の位をを三男コンスタンティノス11世に与えると宣言した。これにより後継者争いは11世が首位となった。世襲のための工作は一目瞭然だった。
同情からか皇帝は「"元"次の皇帝」のローペン公爵に資金を与えた。

1079年4月20日、皇帝は日課の大宮殿の庭の朝の散歩をしていた。思えば今年で73才、少し長生きをしすぎたかもしれない。死をおそれと、富と名誉の欲求で異教の討伐に行き、反乱に怒り、内政に励み、後継ぎに悩み...。気の休む間は、なかった。
そういえば、私は帝国の失地を奪還してはいないではないか!
ふと、おもいだした。まだ働かなければいけない。でも、
「もう少し休もう」そんなことを思った矢先、ふっと意識を失った。
自分の国から飛んで帰ってきた弟と長男、国を持たない次男は間に合ったが、肝心の黒海の向こうの三男は間に合わなかった。
皇帝は虫の息で最後にこういったという。

「ローマ帝国に栄光あれ!」

東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカス 享年73才。

<END>

東ローマ帝国の野望


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