ホエル2世の死後、公位を継いだのは長男のアランである。
既に22歳であり、コルヌアイユを無難に統治していた経歴からその継承に異を唱えるものはいないかと思われていた。
好色かつ利己的な性格のせいで、信仰がなかなか上がらず悩まされることとなる君主である。
1090年、次男アルズールが誕生。しかしこの乳児は生まれた同年に死亡。公爵は深い悲しみに伏せることとなる。
とはいえ翌1091年には三女アグネズが誕生。さらに1092年には三男ブランドンが誕生し、宮廷は一転して吉事が続くことになった。
そんな1092年、アランにとって寝耳に水の一大事件が発生する。ここで継承時には表立って現れなかった貴族たちの不満が一気に爆発。何と勝手に会議を開いて継承権を選挙制にするよう公爵に突きつけてきたのである。
「私が規律だ。そして彼らは臣下にすぎん。それが全てだ!」
強い態度を取ったのが幸いしたか、封臣たちの忠誠度は一時的に大きく下がるも表立った反抗にはつながらなかった。数年で忠誠も回復し、公爵もこの件に関しては寛大な態度で不問に付したのであった。
さて、明けて12世紀。直轄領保有に世紀ボーナスが少し増えることになる時代。
新世紀明けには長女と次女が相次いで成人し、それぞれ嫁に出す。そのおかげで威信が300を越え、またもや小さい伯領相手ならば称号の横取りができるようになった。
アランが目をつけたのは、ウェールズの飛び地グウェントに隣接するグラモーガン伯領。領主はかつて父ホエルによりグウェントを追放された人物で、今は父の跡を継ぎ伯となっている因縁の相手である。
1103年、グラモーガンにクレームをつけ、ブルターニュ封臣の軍をウェールズに上陸させる。今回もナントの兵は留守番であるが、現地で直轄領からグウェントの兵を合流させる。宣戦布告し、目立った抵抗もなく占領、領地を取り上げて伯を追放する。
これによりデヒューバート地域3領のうち2州を支配。西のディフェドを領するデヒューバート公に対し、自らの方がより正当な公であるとクレームが付けられるようになった。
現デヒューバート公は妻の兄であり、アランの義弟にあたる。しかしここ数年は狂人と化して全く政務に手を付けられず、領内の貴族たちの忠誠もすっかり失われている様子である。アランは縁戚関係からその相続を主張し、返す刀でディフェドに侵攻することにした。
かの狂人領主のもとでは動員できる兵も驚くほど少なく、難なく城を占領。義弟の公位を剥奪し、伯爵に格下げしたのであった。
ここで評判が悪くなってきたため、悪評を下げるために信仰を上げることが必要となる。教区司教であった弟ヤンを新たに獲得したグラモーガンの司教とし、現地の統治を任せることにしてアランはナントに帰還した。
さて、軍事行動は一段落したので次は長男ジャフレズの嫁探しである。めぼしい者がいないかと各地を探しているうちに、アイルランドのトゥアードムム伯が破門されているのを発見。今すぐに侵攻する事はないだろうが、後々のために称号の請求をしておくことにした。
後に、管理15を持つマンスター公の三女ブリギットが嫁入りすることになる。
1106年には孫のジョルドが誕生し、これで一族も安泰とアランは胸をなでおろした。
ところが1107年、アランにとっても驚くべき事件が発生する。
なんと、39歳になる妻が妊娠したというのだ。孫までいる状況で、新たに子が出来たというのか。
思えば母が弟ヤンを妊娠したのも同じくらいの年齢であったし、コルヌアイユ家の男は妻に高齢出産をさせる血筋なのだろうか。
翌年、四女のローゼンが誕生。遅くに出来たこの末娘を、アランは目に入れても痛くないほどの可愛がりようであった。
ところがこの頃から、アランは得体の知れない病気に悩まされるようになる。
政務を休むことも度々となり、一日中病床に伏せることも珍しくはなくなっていた。
そして三男ブレンドンが成人し、結婚とグウェント伯叙任が決まった直後の1110年、アランはナントの宮廷で病死したのであった。
コルヌアイユ家略系図
├────────┬────────┐ | | | ゲレッグ ベネディク ホエル 1015-1085 1020-1078 1031-1089 ブルターニュ公1066-1089 | ┌────────┤ | | アラン ヤン 1066-1110 1072- コルヌアイユ伯1084-1089 グウェント司教1104- ブルターニュ公1089-1110 | ┌──────┼────────┐ | | | ジャフレズ アルズール ブランドン 1086- 1090 1092- コルヌアイユ伯1104-1110 グウェント伯1110- ブルターニュ公1110-